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読むまちづくり

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2021年2月の記事一覧

「差別や偏見」の「便利さ」の話。

 前回、差別や偏見を、悪意から来るものだと見ると、暖簾に腕押しになるどころか、むしろそれ自体が、人の有様を悪だと決めつける「差別や偏見」に堕ちてしまう可能性があって厄介だよね、という話をしたんだけどね。  今回はその続きで。

差別や偏見は「悪意」ではないところからもたらされる説

 差別や偏見というものに備わる興味深い性質として、「差別者はそれを差別や偏見であると思っていない」というものがある。それは、差別者の価値観や性根の問題なのだろうか?人の痛みをなんとも思わないような悪者だからだろうか。そうではない、としたら、なぜだろう?

「専門家が独善的に進めるとセンスのいいものが手早くできるけど、市民参加型にするとそうならないけどどうしたらいいのか」問題について。

 こないだ、講座でご一緒したゲストの方が話していたことで面白かったことだけど。それは「プロジェクトは、専門家が独善的に進めるとセンスのいいものが手早くできるけど、市民参加型にするとそうならないけどどうしたらいいのか」問題ってやつで。  市民参加論的な王道の回答は「みんなで話し合っていきましょう」なんよね。それはその通り。だけども、そもそも上のような問いが出てくるってことは、「その話し合いで進めるのにかかるコストとリスクをプロジェクトとして許容しにくい」という状況があるってこ

「おじさん」の当事者研究がいると思うって話。

 最近、「おじさんのジェンダー決めつけ発言」が相次いでニューストピックになっているのだけど、これ、自分もおじさんなので他人事ではないから自己分析しておきたい。というのも、深いところにある世界観みたいなものがあってそこから出てくる発言だから、いくら言い回しを変えさせても同じことが繰り返すと思うの。  まあ、この「おじさんという括りも」そもそもジェンダー決めつけなんだけどね。「おじさん」と、一種の蔑称で呼ばれる行動パターンが観察される人々の世界観はなんなのか、っていうことを、自

地域のパブリックな組織の参加単位が「世帯」であるということの意味

 先日、とある講演でご一緒したゲストの方がやっている仕事の話を聞いて感銘を受けた話をするのだけどね。  その方は地震の被災地の復興を手伝う建築の人で、地域で復興のプランを決めたり利害の調整に関わっているということだった。これは住民参加のまちづくりの分野ではオーセンティックというかクラシックな意味での専門的な仕事で、神戸なんかでもまちづくり協議会制度っていって、地域代表組織を作ってそういう話し合いをするんだね。そこに関わる専門家だという。僕みたいに、ゼロ年代以降にまちづくりを

ムラとしての町内会と、イエとしての世帯の話

 こないだ、学会の研究会ですげー面白い話になって。ちょっと自分の中の整理のためにメモをしようと思うのだが。「町内会が世帯単位で成り立っている」ということについて、だ。  僕なんかすっかりなまくらなので、そのことにまるで疑問を感じていなかった。町内会は世帯単位での参加だよね。うん。という、当たり前のものとして受け止めていた。完全になまくらだ。  で、研究会で、「それって不思議ですよね」っていう論点が出てきて、うぉー、ほんまや、なんでそれに気づかなかったんや、となった。キレキ

女性を差別と偏見から守るために、スキルレスな人々への差別を強めてしまうって話。

 朝起きてふと思ったんだけど、某おじいさんの発言をめぐるニュースに対して、なんか微妙にズレている感を受けるのは、あれを「女性蔑視発言だ」という論点で攻めているところなんじゃないかなと。

毎日風呂に入るように、毎日メンツを洗い落としていきたい

 前回、こんな話を書きまして。  この中で、「メンツが大事なヤンキーのヘッドは、そのへんの兄ちゃんにケンカで負けてはいけない」って話をしました。「俺は20の力があるぞ」ってメンツはってたのに、実は5しかありませんでした、15は見栄を張ってましたわ、ということがバレると、やばいわけです。  じゃあ、絶対負けないためにはどうしたらいいか。それは、「そのへんの兄ちゃんにはケンカをふっかけない」ことです。これがセオリーになります。だから仮に相手からケンカをふっかけられても、絶対に

潜在的な乱世で仮初めの秩序を保つために、僕らは今日もメンツを保つ。

 あんまりトレンディな話題を取り上げるのも何だなあと思ったんだけど、ちょっと考えるところがあって。 2月3日に開かれた日本オリンピック委員会(JOC)の臨時評議員会で、森会長はまず「女性理事を4割というのは文科省がうるさく言うんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります」と発言。  これでやめておけばまだよかったのですが、長々とその後自説を開陳してしまいます。 「女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなき

「殿中」としての町内会の話〜武装集団の停戦を可能とする神聖な領域だったのではないか説。

 僕はまちづくりの仕事をしているので、しばしば町内会のことを考えたりする。行政は、この町内会に、地域課題の解決を担う組織であることを期待することがしばしばある。しかし、以前も紹介したことだけど、町内会の当事者は大抵の場合、自分たちを親睦組織と捉えている。このように、行政の期待する町内会像と、町内会の自認する役割とには、結構な差がある。  ところで、この町内会の自認する「親睦組織」とは、改めて考えてみると、一体なんだろうか。親睦というくらいだから、辞書的な意味合いで、「互いに

「やりたいことをやっているだけ」で、自他を幸せにするために必要なことについて考える。

 ここ10年くらい、市民活動は流動的なボランティア活動者に大いに期待をしてきた。流動的なボランティア活動者は、組織的な基盤や専門的な技能が必ずしもあるわけではないので、彼ら彼女らの活動動機は、しばしば「やりたいことをやる」に頼りがちであったと思うし、そのことがもたらしたメリットとデメリットがあったよね、という話を以前も書いた。  さて、この「やりたいことをやる」系の動機を活動の主軸にする場合、案外忘れがちなことだが、「やりたいことをやる」ことが、必ずしも自他の満足につながる

明晰夢は楽しい。

 こないだ、久しぶりに明晰夢を見た。よくいう、空を飛んだりとか、思う通りになるやつだ。「あ、これは夢だな」という自覚があって、例えば、腕をグンと伸ばすと、その勢いで宇宙に飛んでいけたりする。とにかく、普段の肉体ではできないような超常的なことが思うままにできるようになるのだ。楽しい。  空を飛ぶのも面白いが、今回面白かったのは、思考がものすごく捗ったことだった。  ふだん、私たちの思考はエゴに影響されて自由ではない。例えば、人はいずれ死ぬ、とか、あの件の責任は自分にあったな

我が家の「神」としての、ルンバ。

 最近我が家にルンバを導入した。2週間ほどレンタルできるサービスがあって、それで「これはええやん」ということで導入した次第だ。  そのへんに落としたゴミが自動的に消えてなくなっていく様子は見ていて快感だ。  で、自分が落としたゴミを勝手に片付けてもらえる、っていうのは、思うに「子供」の発想であり、とするならルンバは我が家の「親」のしごとをしていることになる。  「人間」ってのは、もともと仏教語で、サンスクリット語では「人の世」とか「世の中」って意味だったそうだ。たぶん、

「孤独感」も「一体感」もどっちも感覚で、メモリの配分の問題だって話。

 「孤独感」っていうのは、「感」っていうくらいで、「感覚」なんだよなあ、と常々思っていて。反対に、孤独ではない状態、なんだろう、一体感とでもいうんだろうか、これも「感覚」で。いずれにせよ、個人の認知のお話なんですよね。  瞑想なんかをたしなんでみて、最近僕も感じていることをシェアしようと思うんだけど、例えば食事をするとして、食べながら、僕らはいろんなことを考えている。例えば、食後あれしよう、これしよう、あ、そういえばあのメール返してなかったな、あの人のあの言い方はないよなあ