「孤独感」も「一体感」もどっちも感覚で、メモリの配分の問題だって話。
「孤独感」っていうのは、「感」っていうくらいで、「感覚」なんだよなあ、と常々思っていて。反対に、孤独ではない状態、なんだろう、一体感とでもいうんだろうか、これも「感覚」で。いずれにせよ、個人の認知のお話なんですよね。
瞑想なんかをたしなんでみて、最近僕も感じていることをシェアしようと思うんだけど、例えば食事をするとして、食べながら、僕らはいろんなことを考えている。例えば、食後あれしよう、これしよう、あ、そういえばあのメール返してなかったな、あの人のあの言い方はないよなあ、あー、今日の仕事だるいなあ、みたいな。で、そこに加えてスマホのひとつでも触ってみる。ニュースサイトやSNSを眺め、気になる記事をクリックして、読みながら、食べ物を口に運ぶ。
こういう食べ方をするとき、よく言われるように、味はあんまり良くわからない。というか、ちゃんと味わえてはいない。脳内のメモリが食事以外のことに圧迫されるからだ。
で、こういう場面でどうも人は孤独を感じるんじゃないかという気がする。いや、もう少し丁寧に言うと、「他人との一体感を感じることにメモリを振り分けられていない」というか。
一方、スマホを置き、食事に向かう。あれこれ、食事の後の予定や、過去の出来事について考えず、今自分が食べているものに意識を向かわせる。すると、メモリが解放される。解放されたメモリによって、ふと、気づくことがある。
それはなにか。
ちょっと奇妙なことをいうようだけど、「食べれる」のだ。普通に、当たり前のように、美味しく噛み砕けて、味もいい具合なのだ。これは驚くべきことだ。
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