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シェフのこだわり すべてはお客さんに喜んでもらうために
私がアルバイトをしているイタリアンレストランは、普段着で行けるようなカジュアルなお店だ。
格式ばった「リストランテ」ではなく、気軽にワインと美味しい料理を楽しめる「トラットリア」や「オステリア」に近い感じ。
ところが、シェフがあちこちに見せるこだわりが半端ない。そしてアルバイトにもその水準の働きを要求する。
プロ意識ってこんなものなのか、と学ぶことが多い日々だ。
ソース、調味料、デザートまで全て手作り
うちの店はシェフが仕込みから調理まで全てこなすことは前に書いた。
クズ野菜や鶏肉の様々な部位で作るブイヨン、にんにくオイル、そしてトマトソース、ボロネーゼ、ジェノヴェーゼ(バジルソース)などの基本のソースを手作りするのはイタリアンレストランなら当然のことなのかもしれない。
その上で、ベーコンを燻製機で手作りし、パスタを手打ちし、生しらすを塩と唐辛子で熟成させた自家製の発酵調味料「ロザマリーナ」を作る。
低温調理器なども駆使して季節の前菜を常に20品ほど用意し、チョコレートテリーヌやパンナコッタ、ジェラート、チーズケーキなどのドルチェも全て手作りだ。
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最近では店先で自家製カラスミを干し、そのカラスミをたっぷりかけたパスタは、この季節のおすすめの一つになっている。
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だから、朝起きてからランチまでの時間、ランチが終わった後のディナーまでの時間、ディナーが終わってからの深夜の時間、シェフはいつも仕込みをしている。週に1度だけの休みさえ買い出しや仕込みに費やし、休めていないことばかりだ。
こだわる食材とコスト意識の両立
当然のことながら、食材にもこだわる。
例えば、今の季節なら牡蠣は広島産かシェフの故郷である岩手県産の大粒のものを使い、一つのパスタに入れるのも半端な量ではない。毎回、運ぶとお客さんから歓声が上がるので、接客する側も気分が上がるメニューだ。
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マリネやパスタに使うタコは通常、北海道産の太い足のものを、牛肉は岩手県産のA5ランクのものを使う。
野菜も下仁田ネギやちぢみほうれん草など、パスタに掛け合わせた時に驚きがあるものをよく使っている。カルボナーラなどの上に載せる黒粒胡椒もカンボジアの最高級の「カンポットペッパー」だ。
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何種類も揃えているクラフトビールも岩手のもののほか、シェフが好きな海外産のビールを何種類も揃える。ワインも全てシェフが飲んで気に入ったものばかりだ。
「だから外で飲むより、うちの店で飲んだ方が、気に入っているワインが飲めていいんだよな」とぼやくこともある。
こだわりの食材に費用をかける分、そうでないものについてのコスト意識はものすごく高い。食材が足りなくなった時に、私も近所のお店にお使いに行くことがあるが、食材ごとにどの店がどれぐらいの値段で売っているかを全て把握していることに驚く。
「春菊はこの店で○○円だから。それ以下なら他で買ってもいいよ」
1円単位で指示されるので、買い物もなかなか緊張する。
温かい料理は熱いお皿で、冷たい料理は冷したお皿で
そんな店でホールのバイトとして雇われ、初めてパスタの皿を運ぼうとして「熱っ」と取り落としそうになったことがある。お皿が熱々に温められているので、素手では持てないのだ。
うちの店では温かい料理は熱いお皿に、ドルチェやサラダなど冷たい料理は冷凍庫で冷やしたお皿で提供する。
高級レストランなら当たり前の手間かもしれないが、カジュアルなイタリアンでそこまでやっている店はあまり見たことがない。
先日は女性のお客さんに「ここは温かいものは温かいお皿で、冷たいものは冷たいお皿で出てくるのがいいですね」とお褒めの言葉をいただいた。
お皿を取り落としそうになった私に、シェフは「グラスを拭くタオルを使って運んで」と指示し、最初はそれで運んでいた。
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でも、そのうちもっと見映えを良くしたくなり、私はワインを注ぐ時にも使うナプキン「トーション」を自腹で買った。
きちんとアイロンをかけて光沢のあるトーションで運ぶと、こちらも気分がいいし、お客さんももてなされている気分になるかもしれない。バイト代からすればそれなりの出費だったが、シェフのこだわりに引きずられて、私もそうしたくなったのだ。
お皿は、シェフがオーブンやパスタを茹でる湯を使って温める。たまにオーブンから出すのを忘れて焦がしてしまい、高い皿をダメにしてしまうこともある。
それでも「お客さんに最高の状態で食べてもらいたいから」と、どんなに忙しい時でもこの手間は惜しまない。
「お客さんの顔を見てから作ります」
宴会の料理は、前菜盛り合わせからスタートするのだが、決して作り置きをしないのも最初は不思議だった。
お客さんは接客スタッフがドリンクを揃えたら、乾杯し、おつまみも早く食べたいだろう。
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「前菜ぐらい、あらかじめお皿に盛ってラップをかけておけばいいんじゃないですか?」とシェフに言っても、「料理はお客さんの顔を見てから作ることにしているから」と譲らない。
確かに、前菜盛り合わせの定番になっているパテ・ド・カンパーニュも、生ハムも、カプレーゼも切り立て、作り立てが美味しいのは確かだ。でも、前菜だけでも先に用意しておけば、シェフも余裕が生まれるだろうに。
それでも、シェフは味にこだわる。
そんな気持ちがわかってからは、調理の補助を積極的にやるようになった。味と早さを両立できたら、さらにお客さんは喜ぶだろうと思うからだ。
自分のビールだって手を抜くな
うちの店の生ビールはビールサーバーを毎日洗浄するのはもちろん、注文が入ると冷蔵庫で冷やした専用グラスを洗剤と専用のスポンジで浄水を使って洗い、泡がなめらかになるように注ぐ。注ぐ量も泡のこんもり具合も、シェフは横目でいつもチェックしているので気が抜けない。
だから店が忙しい時に「とりあえず生」とグループでの生ビールの注文が入ると、手間がかかって大変なことになる。
バイトもお客さんがお酒をごちそうしてくれたり、仕事を終えた後にシェフが「一杯飲んでもいいよ」と言ってくれたりして、お酒を飲む機会がある。
ある時、生ビールをごちそうになって、「自分の分だから」とグラスを洗う手間を省いて注いでくると、シェフは途端に厳しい顔になった。
「いいんですけど…。やっぱり僕は良くないと思いますよ。自分で飲む時もお客さんに注ぐのと同じように注いで『こんな味になるんだな』と試す機会にしないとダメでしょう。そういうところで手を抜くと、お客さんに注ぐのもうまくなりませんよ(シェフは本気で叱る時、いつも丁寧語になる)」
そうだ、確かにそうだ。ガツンと叱られて心の底から恥ずかしくなった。記者だって普段から言葉の選び方が雑な人間が、仕事でいい記事を書けるはずはない。
これはかなり初期に言われて、ものすごく心に残っている指導だった。シェフは常にこんな姿勢で仕事をしている。飲食店のプロってこういう姿勢なのだな、と背筋が伸びた思い出の一つだ。
お客さんに味見をさせる理由
今回、このテーマで記事を書こうと思って、バイト仲間のコイズミ君に「どんなところにシェフのこだわりを感じる?」と聞いてみた。
「僕はスーパーアラビアータの味見ですね。あれ、いちいちお客さんに味見させるのすごくないですか?」
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なるほど。確かにそれもあった。
うちの店の裏メニューに「スーパーアラビアータ」という激辛パスタがある。
トマトソースをベースに、世界一辛い唐辛子と言われるキャロライナ・リーパー、ブート・ジョロキア、豚ひき肉やラード、唐辛子を混ぜて熟成させたソフトサラミ「ンドゥイヤ」、青唐辛子、花椒、ピンクペッパーなど、さまざまなシェフこだわりの辛味を組み合わせたアラビアータだ。
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テレビでも何度も取り上げられたことから、メニューには載っていないのにたまにお客さんが注文する。厨房で作り始めると、漂う空気を吸い込むだけで咳が出るぐらいの激辛メニューだ。
この注文が入ると、シェフはまずホールに出てきてお客さんにどれぐらい辛い食べ物を食べた経験があるか、今日はどれぐらいなら大丈夫そうか、「カウンセリング」を始める。
話し合いの結果、だいたいの辛さを決めたうえで、ベースのソースを作る。それをスプーンに少し取ってお客さんに味見をさせるのだ。その味見の反応を見て、最終的な辛さに仕上げていく。
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そこまでやっても、最後まで完食できないお客さんもいる。料理人として当たり前だが、シェフは自分が作った料理を残されることをとても嫌がる。
「素材は美味しいものを使っているのだから、本来は美味しく食べてもらえるパスタのはずなんだよ。残してもらいたくはない。それなら完食できるようにこちらが調整するのは当たり前だろ?」
お客さんが喜んでくれることで満たされる
元々、凝り性な性格もあるのかもしれないが、ほとんど帰れない、休めないほど余裕のない毎日なのに、なぜ全てのことにそこまでこだわるのだろう。
シェフ本人は「もっとメニューや、やることを絞れば楽になるのだろうけど、うちはアラカルトのメニューでお酒を楽しんでもらう店だから色々な料理があったほうがいいじゃない」と話す。
そもそも習ったことをそのままやるのが性に合わないのだとも言う。
「自分で工夫してアレンジしたり、調べて試してみたりして、『これって自分で作れるもんなんだな』『自分で作った方が美味しいな』という成功事例が出てくると楽しいんだよ。楽しくなきゃ意味がないじゃない?」
最近では、真鱈子の醤油漬けを作って、和風のパスタに仕立てた新作を完成させた。試作の段階で自分でも美味しいと感じて2食連続で食べたと言い、たまたま店に遊びにきた私やバイトのコイズミ君にも深夜に振る舞ってくれて大評判だった。翌日から店にも出し始めた。
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「お客さんに出したら『これは無限パスタですね』と喜んでくれて、自分もそう思っているからなお嬉しいですよね」
「『美味しいな。これはイケるぞ』と思って作ったものをお客さんも喜んでくれた時に一番幸福感を覚えるし、心が満たされる。そのための手間ならいくらでもかけますよ」