音楽2. オヨヨ書房とGofish
以前、金沢を訪れたとき、せせらぎ通りにあるオヨヨ書房という古本屋に立ち寄ったことがある。古い町屋をそのまま古本屋にしたような店なのだが、どんなに外が明るくても内部はほの暗く、堆積した古書の紙のにおいと時間が滞留していて、いまでも金沢の土地の感覚と色濃く結びついている。
そこでは寿岳文章としずの全集の一巻を安くで買った。芹沢銈介の手になる装丁は、茶色にくすんでいるが、木版によるおおらかな線の装飾が書店の雰囲気にとても似合っていた。(まだ内部は数ページしか読み進めていないということは言い添えておく。)
本を物色しているとき、店内には歌詞の妙に印象に残る曲が流れていた。「肺は正常に血液に、酸素を送って…」。心臓が血液を規則的に送りだすイメージはなんとなく見聞きしたことがあるが、肺というものは、あまり意識したことがないものだったので、それが歌としてあらわれたことの驚きがあったのだろう。あとで調べたところ、Gofishことテライショウタという名古屋を拠点に活動するミュージシャンの「肺」と題される曲であった。
心臓よりも、肺は静かなイメージである。そのぶん、死により近いというか、死となだらかにつながっている。鼓動が止まれば終わるようなものではなく、呼吸は徐々に弱くなり、息が止まってもなだらかに意識が遠のくだけである。
ただ一方で、ここには血液の、色濃い「血」のイメージがあった。そして歌のなかでは、静かな「肺」のイメージと同時に、急かされ、そのために走り出さざるをえないものについてもまた唄われている。「二度と届かないような気がしてしまうから。足がちぎれるほど走り続けている。」なだらかに死と繋がる感覚と、一方で急くような、身体的な、血肉を感じさせるものの対比が、この歌の根底にはある。
このGofishが、イ・ランと井出健介の3人で、彼の「さよならを追いかけて」を唄う動画がある。「出会いは一瞬なのに、さよならは永遠に続く」という一見逆説めいた歌詞からひろがっていったような歌である。もちろんここでは昨日、今日、明日という時間の「螺旋の輪」を覗き、「巡りあう時間」を眺める視点がもたらされている。しかし、それを突き抜けていく何かがある。「だからずっとずっと、遠くまで」。
最後がもっとも美しい。永遠に続く「さよなら」を追いかけていたものが、「さよなら」を追い越し、それに「さよなら」を告げる。3人の重なり合う声で歌われる最後の「さよなら」は、「追いかける」ものではなくなり、呼びかけるほんとうの「さよなら」になる。井出健介の歌声は、ほかの二人とのハーモニーのなかでより高く、なだらかに弧を描きながら上昇し、そして落ちていく。ほの暗い夜空に現れて私たちにさよならを告げる流星のようである。そして私たちにも、そして「さよなら」にもさよならを告げて、ずっとずっと遠くまでいってしまう。
オヨヨ書房で本を買って出た外の光は、本当にまぶしかったのを覚えている。一方で肌にはあのひんやりとした壁や紙片の感覚がまとわりつき、網膜の奥にはふりつもったほこりが張りついているようだった。めぐりあう時間と、それを静かに貫いて、どこか遠くまで行ってしまうもののあいだで、すこし立ちすさんだ。背後には内部をほの暗く見せながら、その戸口を開いている書店が佇んでいた。
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