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映画『もののけ姫』で旅について考える

名画を見つけた、『もののけ姫』という。

立場の異なる者たちが同時に行動するので展開が読みにくく、しかし話が取っ散らかることはない。オッコトヌシからは獣臭さを感じるほどの画力に、引き込まれる。誰もが怒り、争い、負けていて、普遍的な暴力の応酬に考えさせられる。

こう語りたくなるのが名画であり、そのように語り継がれた結果が名作である。そしてようやく31歳の僕の元に届いた。


『もののけ姫』のテーマは「旅」でないかと思う。

本作は非常に多くの世界の見方が披露される。アシタカの故郷の村、旅の途中で通る集落、タタラ、中央政府、サムライ、サル、イノシシ、イヌ、シシガミと、思いつくだけでこれだけの集団が出てくる。集団には集団の世界があり論理があり守るべきものが存在する。だからそれが侵されれば対抗する。その姿に「人間」も「自然」も「国」も区別なく、さらには「神」さえも特別ではない。

翻せば、その世界の見方でしか感知できないから、いさかいが絶えない。

例えば、故郷の村ではドクイノシシのことをタタリ神といった。その実態は神に見捨てられたイノシシであるが、これを神扱いしている。村にいる限り、長老の言うそれっぽいことを信じるしかないだろう。
アシタカが途中で通過した、集落同士の戦いに明け暮れているものたちは、遥か西で鉄が生まれていることを、それが近い将来に脅威となることを知る由もない。
町の商人は砂金を見付けられず、タタラの住民は鉄の生産とシシガミの怒りに繋がりを見出すことはできない。
政府の手先はタタラの生活を理解しようとせず、サムライは銃の製作のための犠牲や辛苦を理解できない。
イノシシは自分の暴走が仲間に与える影響を考えられず、イヌは共存の道を考えることを諦め、サルはそもそも考えることを放棄した。

こうして自分たちの世界に閉じこもることで、境界ができて保守的になる。

唯一、この枠組みから外れていたのがアシタカとシシガミだ。

いやぁーまいった、まいった。バカには勝てん

もののけ姫/ジコボウ

物語は、ジコボウがアシタカのことをこのように評して終わる。

アシタカはひたすらに移動し会話し、旅をした。その行動は無秩序にすら見える。女が襲われれば助け、旅に出ろ言われればどこまでも行き、優しくされたら走り、誰の味方かわからず、あまつさえ移住してしまう。

その時々で判断を変えるアシタカの行動は理解に苦しみ、どちらかといえば、シシガミの頭を狩ることに明確な目的を置いているジコボウの方がよっぽど感情移入ができる。しかし、物事をフラットに捉えて複眼的に世界を見るには、旅によって得られる、視点の変化と率直な想いの両方が必要なのだろう。そしてそれはきっと移ろうもの。その姿が周りからはバカに見えたとしても。

くもりない眼で物事を見定めるならあるいはその呪いを断つ道が見つかるかもしれぬ

もののけ姫/村の長老

結局、この姿勢が必要なのは若者のアシタカだけではないし、呪いがあるのは『もののけ姫』の中だけの話ではない。

はたして、世界に閉じこもるのは僕もそうだ。僕は鶏のモモ肉がスーパーで袋詰めされるまでの工程を知らないし、神の視点でもののけ姫を観ているにも関わらず無秩序なアシタカやシシガミの考えを理解できない。シシガミに関しては、助けを求められても動かず、人間の前におめおめと姿を現し、二発の弾丸に倒れる。イヌより弱いのに全てを野に返す力はある。今の僕には全く意味がわからない。

だから旅が必要だ。

旅をし、未知の集団の行動論理を知り、世界を広げる。
そうすることの先にしか共存の道はない。


〔10年前の屋久杉と屋久島〕



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Nomura Keisuke
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