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なぜあの人は器用なのか?
身近に「器用だなぁ」と思う方はいらっしゃいませんか?
わたしは子供の頃はそんなに不器用だと思ったことはなかったのですが(自覚がなかっただけかもしれないけれど)、
大人になればなるほど、なんでわたしはこんなにも不器用なんだろうと思うことが増えていきました。
なんでだろう?何が違うんだろう?と他人と自分を観察し続け、ついに発見しました。身近にいる器用な人と自分の決定的な違いを。
結論から言います。
不器用な人は『再現することを前提に観察していないので、物事をぼんやりと受け身的にみている』または
『どういう構造で成り立っているかを把握するための‘要素分解’が極端に苦手なので情報がひとつなぎになったまま』のどちらかであることが多いのではないかなと思います。
表現が抽象的なので、料理を例にしてみます。
例えば、レストランでパスタを食べるとします。
「わぁ、おいしそう!おいしい!あぁおいしかった」というリアクションの裏を見ていくと、、、
「受け身」の人が受け取った情報は、リアクションそのまま「〇〇パスタがおいしかった」というシンプルなフレーズになります。この場合、家で再現しようとしてもかなり難しいです。なぜなら「〇〇パスタがおいしかった」しか情報が残っていないからです。
同様に‘要素分解’が苦手な人は「〇〇パスタ」という大きな枠が一体どれだけ細かい要素から成り立っているかを把握できないので、「〇〇パスタ」というザックリとした情報しか受け取れず、やはり再現が難しくなります。
一方で、いつも無意識に「再現する」ことが前提になっていて要素分解が得意なタイプの人は、リアクションは同じだったとしても「なるほどこうやって作るのね」「なるほどテーブルコーディネートはこうしてるのね」「なるほど〇〇」という感じでかなり多くの情報を獲得しています。
(多くの場合はそれをしている自覚さえない人が多いと思いますが!)
結果、「真似してみよう!」が可能になり、「器用な人」に認定されるというわけです。
これはもちろん料理だけでなく、ファッションやヘアメイク、インテリアのコーディネート、あらゆるモノづくり、スポーツ、余暇に関わるあれこれ、その他数えきれない物事に言えるなぁと自分の経験から感じています。
そしてこのタイプの人たちは「たのしみ上手」になれるので、人生や日常に楽しさを見出しやすいのかなぁと思います。
分かりやすい有名人を例に出すと、所ジョージさん(世田谷ベースがまさにそのもの!)や、タレントのヒロミさんが典型的な「器用」かつ「たのしみ上手」な人たちだなと思います。
彼らはおそらく‘要素分解’の達人なので、幅広い関心に加えてクリエイティビティの高さがずば抜けているのだろうなと思います。(その代わり、一つのことを極めているわけではないというのもポイントかもしれませんが。笑)
さて、これまで多くの人を観察する中で感じるのは、器用と言われる人は
①‘要素分解’の才能に長けているからこそ
②「再現しよう」「わたしもやってみたい」「わたしにもできそう」という発想に結びつき
③やってみる+さらに必要な情報を集められる+そこそこ再現もできる
の順なのではないかなということです。
なぜなら「再現」を前提に体験していたとしても必ずしも‘要素分解’ができるわけではないからです。
もちろん、ものすごく強く興味を持ったものに関してはのめり込む中で‘要素分解’できるようになっていくものもあるとは思うのですが、
日常的な「モノの見方」の傾向として‘要素分解’がクセ付いている人とそうでない人では、物事の見え方がまるで違うんだなということを自分の経験から感じています。
最近の言葉を使うと「クリエイター視点」とか「アウトプット前提にインプットする」という表現が当てはまりそうです。
さて、ここで最初に書いた「子供の頃はあまり不器用だと感じなかった」ことについて、わたしの中ではかなり重要なポイントを書きたいと思います。
極端に要素分解が苦手だったわたしがなぜ子供の頃にさほど不器用だと感じなかったか、というと、、、
・子供の頃は親や先生に「〇〇しなさい」と言われる
→言われたことはきちんとやるタイプだったので、教わった通りに一生懸命取り組んだ
→何度も何度も繰り返す集中力と根気はあった
=型を身につけていった
結果できるようになった、ということが多かったのです。
だからあまり「不器用」と感じることはなかったというわけです。
習い事に関しても同様、真面目なので「教わったことを」一生懸命取り組んでできるようになる、というパターンです。
この段階で‘要素分解’が身についていればよかったのですが、元々苦手な上に丸暗記方式のような形でしか情報をインプットしていなかったので、
親や先生に「やりなさい」と言われ根気よく取り組んだもの以外は「自分にもできる」という発想にさえならず受け身的な体験になる上に、情報はひとつなぎになったまま、、、
これによって無意識に、物事は「直接的に教われば」できるけれど、そうでなければできるようにならないという思い込みにもつながっていったような気もします。つまり、教わらなくても観察によって多くを学ぶ(真似ぶ)ことができるという発想がないということです。
また驚くばかりの効率の悪さも、この‘要素分解’できるかどうかが大きく関わっていたのだろうなと思います。言われたことはできるけれど、自分で「考える」ちからがまったくついていなかったということです。(やれやれ)
一方で不思議なことに「コミュニケーション」という分野に関してはどちらかというと「器用」な部類に入りそうです。(自己満足レベルなので必ずしもそうとは言い切れないのですが 笑)
それこそ体験を通じて情報をインプットしているという自覚さえないレベルで何かを獲得しているようです、、、
よくよく考えてみると、おそらく対外的なコミュニケーションが得意な母をずっと身近に見てきたので、刷り込みレベルで身に付いたのかもしれません。
こう見てみると、人間とは本当に不思議な生き物だなぁと思います。
わたしは後天的に「要素分解スイッチ」を身につけましたが、意図して「オン」にしないと基本的にいつもぼんやりしてしまいます。しかも「再構築(再現)+α」は、分野にも寄りますが、いまだに相当苦手です。
もしかしたら程度によってはこれも「発達障害」の部類に入るのかもしれませんが、どうせならその分この能力が長けている!というものがもう少しあってもいいのになぁと思ってしまいます。(自分が色々とできない側の人間だった分、こういった感じの説明は得意になったような気もしますが)
と愚痴を言っていても仕方がないですね。
きっと色々と「できない、わからない」の立場から、人間のしくみについて探求してみたかったんだろうなと、今はそう思うことにしています。
というわけで、今日は「なぜあの人は器用なのか?」をテーマに自分の経験から導き出した考察をシェアしてみました。
自分のこと、
身近な人のこと、
親御さんであれば娘さんや息子さんのこと、
先生であれば生徒さんのこと、
を思い浮かべたときにもし「不器用」さが目立つときは、この‘要素分解’の話を思い出してサポートしてあげてもらえたらと思います。
また、言われたことをやるのが得意で成績がある程度良かったとしても、「自分で考える力」「自分で要素分解+再構築(+α)できる力」はまた別だなとわたし自身の経験から思うので、そのあたりもサポートがあると多少生きやすい人生になるのでは??と思います。
いろいろな能力をぼちぼちアップデートして、さらに生きることを面白がれる人になっていきたいなぁと思う今日この頃です^^
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このnoteでは「マイナスからゼロへ、そして人生を面白がる達人へ」というテーマで自分自身の体験に基づく記事を綴っています。
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こちらものぞいてみてもらえたらとても嬉しいです^^
1位「人を助けたい=傲慢?」
2位「地に足のついたスピリチュアル②」
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最後までお読みいただきありがとうございました。
またお目にかかれますように^^