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「今日が人生最後の日だと思って生きろ」よりも満たされる人生観


"Live every day as if it were your last"
(一日一日を人生最後の日だと思って生きなさい)


誰もが一度はこのような言葉を聞いたことがあるのではないだろうか。

意図としては「後悔せずに生きろ」ということなのは理解できるが、私はこの言葉があまり好きではない。


今日が最後だと知らされて、どれだけの人が残された時間を有効に使うことができるだろう。

たいていの人は運命を呪って怒ったり泣いたり、好き勝手暴れまわったり、せいぜい恋人と抱きしめあって過ごすだけではないだろうか。少なくとも、喜びを持って生きたり、本当にやりたいことをやったり、他人や社会に貢献しようという考えにはならないように思う。


死(終わり)を意識して生きることには大賛成である。でもどうせなら、来ると思っていた明日を「奪われる」という発想よりも、今日という一日を「与えられた」思いながら生きたい。


ストア派哲学者のマルクス・アウレリウスの言葉にこんなものがある。

Think of the life you have lived until now as over, and as a dead man, see what's left as a bonus and live it according to nature. 
今まで生きた人生は終わったものとし、一度死んだ人間の目で、おまけとして与えられたものを見つめ、それを生きなさい。

(*Live according to nature も面白いストア派の考え方なのだが、奥が深いので今回はあえて訳さずにおいた)


ここで注目したいのは「一度死んだ人間として生きる」という考え方。昨日で一生が終わるはずだったけど、宇宙が1日おまけしてくれた。この逆転の発想の方が「お得感」があって私は好きだ。


もう死んだなら、今さら悲しんだり怒ったりすることもない。今日与えられた時間を「ボーナス」と捉えれば、嘆くことなく、一日を大切に生きられるように思う。

また、昨日死んだとするなら一度ずべてが「無」になっている。地位や名声やお金も関係ないし、「どう他人に覚えられたいか」という心配も意味をなくす。

ただただ「生かされている」ことが喜びとなり、その恩恵を社会にお返しするには何ができるだろう、と外に意識が向く。


実際、今日生きていることはなんてラッキーなことだろう。

事故もなく、戦争も災害もなく、寝ている間に息が絶えることもなく、今日目を覚ましたこと。それはあたりまえのようで、誰にも保障することができない奇跡である。


同じストア派のセネカもこう綴っている。

Let us go to our sleep with joy and gladness. Let us say "I have lived; the course which Fortune set for me is finished." And if God is pleased to add another day, we should welcome it with glad hearts.
毎晩喜びを持って床に就こうではないか、「私は生きた。授けられた運命はこれにて終わり」と唱えながら。そしてもしも神がもう一日与えてくれると言うなら、それを喜んで受け入れよう。


「私は生きた」と満足感に浸って床に就き、

「もう一日与えられた奇跡」に感謝を持って今日も生きる。


そんなストア派な生き方の提案。


2020年12月9日 神奈川県秦野市より
もえん


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ノマド翻訳家のもえんです。
チャリでADDressの拠点をホッピングしてます。定住しない暮らし、哲学・思想、言語学・語学、好きな言葉についてぽつぽつと発信してます。

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