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何もしなくてもいい状態について


これもしていいし、あれもしていいし、何もしなくてもいいよ!

この自由すぎるが故のぐらつきを傍観者の視点で書いてみた。


何もしなくてもいい状態に対して、人によって感じ方が異なるというのがわかってきた。今まで当たり前にしてきたことは特別しなくてはいけないことでもなかったことに気づいたりもする。


何もしなくてもいいっていう状態に対して、安らぎと不安を感じてしまうためよくわからなくなる。

何もしない状態であれば、しっかり受け入れて堂々と何もしないだろう。

しかし、何もしなくてもいい状態っていうのは、したほうがいいことあるよみたいなニュアンスが含まれている。


やらないよりはやった方がいいとか、気遣いができるとかの領域というのか細かな人間性みたいなものを問われている。

何を目的にしていけばいいのかさまよってしまう。

今までの生き方に対して何の疑問も抱かなかった人にとっては、いきなり放り出された感覚になったりする。逆に、モヤモヤを抱えていた人はやっと気づいたかみたいなスタンス。


結論、お互いがそれぞれにやりたいことやっていけばよくて、したいことだけに焦点を当てたらいいんだ。みたいなところなんだけど、その先の進み方がいまいちわからんのよね。


自分がどうありたいかとかその先の住みやすい社会だとか、どこまでの範囲内で行動しているんだろう。

一人の人間が持つ力を信じる必要性はあるんだけど、どこまでの力を及ぼすことができるのか。


結局、目の前の現実に対してコツコツやるしかなくて、それが後々大きくなってくれることを願う。

それをどこまでの臨場感で想像して、目の前に夢中になればいいのか。


何もしなくてもいいんだけど、それでいいのかという疑問に明確に答える必要性がある。しかし、答えがわからない。

これの正体は不安なのかもしれない。

どう生きればいいかわからない。どうなるかわからない。


エネルギッシュに動いている人は、そういうことも理解した上で、活動的になっているのだろうか。

ただ単純にしたいことがあるから、それに向かっているだけなのだろうか。

その先に何があると思って行動しているのだろうか。


疑問しか出てこない。そんな自分は何だろうとわからなくなってきて、どんどん闇に入り込んでいく。


この何もしなくてもいい状態に対して、それぞれに思うことがあって、それに対しての行動はいろんな形があると思う。

複雑に考える必要もなく、ただ何もしなくていいという生き方もあるし、ここからできることをやる生き方もある。


どの生き方や考え方、人間としてのあり方が良いのか選択するだけなんだよね。そして、波長の合う人とだけ繋がればいいし、合わない人とは繋がらないというだけなんだ。

何となく生きてきたことに対して、より一層現実を生きなければいけなくなっただけなのかもしれない。


今までもそれは近くにあって、みんなが意識しだしたというだけであって、新しいものでもない。

淡々と自分ができることをして命を使っていくしかないんだもの。


傍観者は傍観者の忍道を生きるだけだ。


傍観者の何もしなくてもいい状態は、このように何もせず人間の動向を外から眺めている。今までもこれからも。





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自分の信念を問われているよね。多様性に向かう中で、自分のポジションを今一度確認するのも面白いです。


傍観者の戯論







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