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短編小説『存在の調律師』


プロローグ - 398Hzの残響

夕暮れの診察室に、古びた革手帳から漂うしょうのうの香りが満ちていた。タチバナ守は、六十五歳の手の震えを押さえながら、息子の遺した手帳を開く。白衣のポケットから、和樹が愛用していた万年筆が重たく感じられた。表紙の裏には、かすれたインクで「398Hz:存在のリミット」と記されている。

第一章 - 傷跡の五線譜

「完璧じゃないと、消えたくなるんです」

星野アカリの声が震えた。診察台の上で、彼女の左手首の五線譜のような傷跡が、夕陽に照らされて浮かび上がる。元ヴァイオリニストの母から譲り受けた古い楽器の弦で編んだブレスレットが、その傷跡を冷たく包んでいた。よく見ると、弦には微かに「T.K. 2023/12/25」という刻印が光っている。金属の硬さが肌に食い込む感触が、彼女の現実を確かめているかのようだ。

第二章 - 警告の残響

タチバナは引き出しから一通の文書を取り出した。医療倫理委員会からの警告。完璧な矩形の用紙に「被験者ID:K-217、重度の解離性障害発症」という過去の事例が赤字で記されている。装置の即時破棄命令に、夕陽が不吉な影を落とす。

第三章 - 和樹の遺言

「この装置で、あなたの『存在の周波数』を変えられます。でも…」

言葉が途切れる。一年前、この装置のプロトタイプを開発していた息子・和樹が心臓発作で倒れた日の記憶が蘇る。研究ノートには「心臓への負荷測定値が398Hz実験時に異常値」と記されていた。完璧な音を追い求めすぎた代償。過労と睡眠薬の過剰摂取。「完璧な音を探して、僕は本当の音を見失った」。それが和樹の最期の言葉だった。

タチバナは息子の研究日記を開く。死の三日前、2024年1月12日の記録。

『398Hzは変ホ長調の基音から僅かにずれている。この「不完全さ」が人の心に共鳴する。0.2%のずれが、却って魂を解放する。完璧な周波数は、心を閉ざすだけだった。』

第四章 - 共鳴の始まり

アカリは深いため息をつく。「春のコンクール、母の期待に応えられなくて。演奏中に弦が切れて…会場が凍りついて」

その時、装置が低い唸りを上げた。モニター上の波形が、和樹が最後に録音していた「母の子守唄」の周波数と重なる。398Hzの共鳴音が、3.2秒の残響時間を伴って診察室に満ちた。

タチバナは息を呑んだ。その音は、毎日十七時に鳴る教会の鐘の音と同じだった。胸骨の奥が微かに震える。地域に伝わる「許しの鐘」と呼ばれる音色。老いた指が、無意識に聴診器を握りしめる。

第五章 - 治癒の周波数

三ヶ月の治療期間。倫理委員会との厳しい交渉が続いた。「前例のない周波数療法の危険性」「被験者の心的外傷への影響」。タチバナは毎晩、和樹の研究データと向き合い、安全性の証明に没頭した。時に、白髪の生え際から汗が零れる。

第六章 - 解放の調べ

地下音楽室の壁には、シューベルトの未完成交響曲の楽譜が貼られていた。和樹の赤ペンで「ここに真実がある」と書き込まれている箇所で、アカリがヴァイオリンを構えた。治療の最終段階。アンダンテ・コン・モート、四分音符=88の緩やかな調べが始まる。

タチバナは音叉を取り出し、398Hzを響かせる。アカリの傷跡から光の粒が溢れ出す。その光は、かつて和樹が見た夢の軌跡のように、空中に「ごめんね」という文字を描く。それは母への、そして自分自身への言葉だった。

第七章 - 共鳴庭園

半年後、音楽療法センター《共鳴庭園》のエントランス。倫理委員会への最終報告書。タチバナは意図的に用紙の角を0.2%だけ折り曲げた。完璧な矩形からの、小さな解放。

「お母さん…」 アカリが震える声で呼びかける。星野美咲、元ヴァイオリニスト。教会の鐘の音を背に、無言で娘を見つめていた。その瞳に、かつて自身のコンクール挫折時の記憶が映る。「あの日の演奏、完璧じゃなかった。でも…今なら分かる。音楽に完璧なんてない。あるのは、心の響き合いだけ」

美咲の目から一筋の涙が零れた。アカリのブレスレットが、夕陽に輝く。その輝きは、和樹が最後に残した398Hzの波形と同じ揺らぎを持っていた。

タチバナは静かに微笑んだ。最終報告書の冒頭に、和樹の言葉を引用する。『不完全な音にこそ、人は共鳴する』

エントランスに掛かるヴァイオリンのE線が、朝日に照らされ「未完成」の文字を浮かび上がらせる。その下のプレートには、和樹の筆跡で「不完全さは、未来への共鳴装置」と刻まれていた。和樹が遺した398Hzの研究は、今や難治性うつ病の新たな治療法として、医学界で注目を集めていた。

エピローグ - 存在の肯定

夕暮れ時、教会の鐘が鳴り始める。タチバナは耳を澄ませた。398Hzの波が、確かに誰かの心の奥で共鳴している。それは息子が遺した、存在を肯定する音色だった。聴診器越しに聞こえる自身の不整な鼓動すら、今は人生のアラベスクのように思えた。

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