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彼女の手料理は生殺与奪の権を握るのか


きっと多くの人にとって「は?」って話である。

そして、久々に自分でもやばいこと言ってるなと思った。それでもこの世の誰かは共感してくれても良さそうなので、恐る恐る書いてみる。


さてさて、「手料理が苦手」な人はたまにいる。
実は、僕も言いづらいけど苦手だ。

よくある理由は潔癖だとか、味がどうだとかあるが、そういった理由ではない。

潔癖ではないのでその辺はあまり気にしないし、味に対しても別にこだわりがない。大抵のものは「ウマ〜」と感じる都合の良い味覚を持ち合わせている「味覚ちょろ男」なのだ。

じゃあ何で手料理が苦手なのかっていうと、


なんとなく、
「生かされてる感」がするからだ。


意味不明な事を口走っている可能性があるが、気にしないで進める。この時点で脱落してしまう人が多そうだ。

そもそも食事という行為は、生命維持に不可欠である行為だ。食べなければ人は死んでしまう。

その生命維持活動を他人に委ねるのが、自分の生命を他人に預けてしまうような、そんな感覚になる。

例えば、外食はお金を払って食事をする。それは自分の意思で完結する。お金の対価として食事を得るという構造があるから、そこに変な後ろめたさはない。

でも、手料理となると話が違ってくる。

誰かが自分のために、もっと言うと自分の生命のためにわざわざ作ってくれた料理を食べるという行為は、「自分はそれに生かされている」ことと同義だ。

たとえそれが恋人でも、冨岡義勇よろしく「生殺与奪の権を他人に握らせるな」と言われんばかりの落ち着かない気持ちにさせる。

特に、その料理が「愛情を込めた手作りごはん」みたいなニュアンスを帯びてくるとなおさらだ。

愛情を受け取ること自体が苦手というわけではない。手料理そのものは嬉しいし、普通に美味しく頂くのですが。

ただ「あなたのために作りました」という事実は僕の中の生殺与奪の権を無性にざわつかせる。

自分の存在そのもの、自分の生命そのものが、他人の手に委ねられていることを突きつけられるような感覚がある。


もちろん、これは単なる僕の異常な感覚であって、1mmも手料理を否定するつもりはない。

ただ、昔から心のどこかで謎の引っ掛かりが発生していた。実家にいた時も、実家のご飯は食べずに、基本的に外食やデリバリーをしていた。親に生かされてる感が嫌だったからだ。

前の彼女と同棲していた時も、基本的には外食かテイクアウトかデリバリーで、たまに作ってくれる時は、心の冨岡義勇が叫び出すのだ。

とはいえ、それはそれで美味しく頂くし、感謝の気持ちは普通にある。でもやっぱり「生かされてる感」だけは苦手なままだった。



誤解を恐れずに言うと、「作ってもらわなくても生きていける」という感覚。

もっと誤解を恐れずに言うと、「他人に生かされる筋合いはない!なめるな!」的な感覚だ。多分言い過ぎなのでわざわざ記事の深部に持ってきた。

もちろん口に出したらマジの奇人だし、普通に問題発言なのでわざわざ言わない。感謝はしてる。相反する心の冨岡義勇がいるだけで。

「え?でも外食も他人に生かされてる事実は変わらなくない?」

そうだ。でも決定的に違うのは、
外食は自分でお金を払って料理を求めている。

お金という対価を払う事で「生かされてる感覚」を相殺してる感覚だ。

そもそも、僕は基本的に恋人に対して、「料理作って」とお願いすることはない。

「作ろうか?」って言われても、「そ!そういえば前に餃子食べたいって言ってなかった?!」と話題を逸らして餃子屋さんに誘導するテクニックを発揮する。

それでも防波堤を突破してきて「いや!今日は私が作るよ!」となると、感謝の気持ちはもちろんあるが、心の冨岡義勇が「生殺与奪の権を他人に握らせるな!」と叫んでくる。

理想を言えば、僕は恋人にもお金を払いたい。対価を払わずにただ生命を維持する食事を与えられると、「生かされてる」感覚が強くなるからだ。雑にいうと餌やりされてる気分になる。まあ多分この感覚はおかしい。

これが、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなものである。

現実では口が裂けても言えない!


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