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多様性とは、気にしないこと


「多様性」や「ダイバーシティ」というとなんとなく良いことだと洗脳されているけれど、アメリカだと最近ではバックラッシュ気味だ。

揺り戻しかのように、多様性に関する方針を取り下げたり、見直す企業が次々と出てきてる。米マクドナルドやメタだったりが、その例になる。

さて、個人的には「多様な社会」であることは良いことだと思う。色んな人が色んな事を差別されることなくやれて、自由に生きれる世界は良いものだ。

ただ、その理想の社会を作るための手順を、
人類は誤ったような気もしなくもない。

多様性とは「目指すもの」でも、
「受け入れるもの」でもないのかもしれない。


昨今の社会では「多様性を受け入れる」という姿勢だ。確かに大切っちゃ大切なんだけど、その一方では、逆差別状態になっていることもしばしば見受けられる。

「多様性は受け入れる」のではなく、
「気にしないこと」だと思う。

今のところ、多様性は「受け入れる」ことが大切だと言われる。

でも、「受け入れる」と意識している時点で、どこかに境界線を引いている証拠だと思う。

本当に多様性が当たり前の世界なら、
「受け入れる」ことすら考えなくなるはず。

例えば、コンビニに行くとしよう。
そこにはおにぎりもあれば、サンドイッチもある。カレーもあれば、パスタもある。

でも、わざわざ「私はパンを受け入れています」「和食文化を尊重します」と意識する人はいない。

ただ「自分は何を食べようかな?」と選ぶだけ。

パンが好きな人はパンを選び、米が好きな人は米を選ぶ。でも、ほかの選択肢があることを不自然には感じない。多様性とは、本来それくらい自然なもので良いと思う。

人の違いも、本来はこれと同じでは?

「この人はこういう価値観なんだな」
「あの人はこんな生き方をしているんだな」

と、ただ思う。それ以上の意味をつけない。

違いを特別視せず、驚かず、評価もせず、
「ただそういうもの」として、通り過ぎる。


街を歩いているとしよう。スーツの人、金髪の人、ヒジャブを巻いた人、タトゥーのある人、車椅子の人。

そこに特別な意味をつけることなく、「ああ、いろんな人がいるな」と思える、というか意識すらもしない。そんな世界こそ、本当の多様性が根付いた社会なのではないか。

逆に「私は多様性を受け入れています!」と強調することこそ、まだ「普通とは違うもの」として意識している証拠。

もちろん、人間には好みがあるし、価値観が合わない相手もいる。それは自然なことだ。でも、「この人はこういう考えだから受け入れなきゃ」と頑張るのではなく、「この人はこういう人」と軽く流せばいい。

僕たちは、多様性を「受け入れるべきもの」として特別扱いするのではなく、そもそも気に留めないくらいの世界を目指した方が良い。

違いを「認める」のではなく、「あって当たり前のもの」として流していく。きっとそれが、本当の意味での共生なのだと思う。

だから、マイノリティ側は「受け入れてくれ!わかってくれ!」ってスタンスじゃなく、「あ!気にしないで!w」ってスタンスの方が効率良さそう。

しかし一見、簡単そうな仕組みだけど世の中には
「人の生き方が気になってしょうがない人」が意外と多いので、この理想像はまだまだ遠いし、今日も明日も価値観の争いは絶えないのだろう。


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