夏祭りの後、消えてしまいたいと思っていた私に。
どういうわけか「消えてしまいたい」と思ってしまう。「死にたい」じゃなくて「消えてしまいたい」。それは、現実でないどこかにいきたいというよりも、私という存在自体がぷつりと跡形もなく消えてしまう。そんなニュアンスに近い。
こんなことを思いついてしまうのは、私の身に何か嫌なことがあったからなのではと思う人もいるだろう。心配ありがとう。だが無い。全く無い。それどころか「消えてしまいたい」という感情は、ものすごく幸せだったり、楽しいことがあった後によく思う始末である。
本当、なんでなんだろう。
夏祭り、それは特例で夜遅くまで友達と遊ぶことができる日。スーパーボールすくいで私が1日限りのヒーローになることができる日。人混みや花火の音に紛れてこっそり恋人とキスができる日。楽しくて幸せでたまらない日。
そんな日の帰り道に私は思うのだ。このまま消えてしまいたい、と。思うのはいつも祭りが終わったときだった。張り上げる人の声も、地鳴りのような太鼓の音も、古いスピーカーから聞こえる音質の悪い演歌も、先ほどまで私を取り巻いていた全ての音が消え、静寂の中でカエルが静かに鳴くタイミング。
帰り際に「さよなら」がこだまする度、私は世界と溶け合いたかった。それができないのなら、シャボン玉のように自身が割れたことも気づかないまま、跡形もなく弾け飛んでしまいたかった。身体の輪郭を脱ぎ捨て、私は私を取り巻くあらゆる人と物とひとつになりたいと思った。
「さよなら」は拒絶の言葉のようだった。帰りの挨拶は君とはずっと一緒にいることはできないという宣言に聞こえ、私を悩ませた。別れはいつも私を孤独にさせた。それでも、寂しくて悲しくてやりきれない感情は確かにそこに幸せがあったことを示していた。それは麻酔と同じく、私の苦しみを鈍くした。
今年の夏も次の夏もきっと願いは叶わない。そもそもこんなご時世なので、祭り自体が無いのだが…… それでも、おそらく来年も再来年も私は世界と、あなたとひとつになることはできない。こんなことを考えるのは自分だけなのだろうか。
そろそろ夏の匂いがする。火薬の匂い、塩素の匂い、生命の匂い、この世の全てを一緒くたにしてしまったような、美しくて残酷な、そんな匂いがする。
夏の匂いに紛れて消えてしまいそうな私を、私は抱きしめてあげたい。これでもかというほどきつく抱きしめ、鈍く曖昧になった輪郭をはっきりと示してやるのだ。どれだけ願っても、私は決してこの世の誰ともひとつにはなれないから。そんな自己完結の抱擁によって、私は今も消えずに生きている。