映画館で躍動する猪木を見て思い出したプロレス愛
大学の時、ゼミの先生が「馬場と猪木のどっちが最強だと思う?」と聞いてきたことがあった。「俺は馬場だと思う」とも。
先生は10歳くらい上だったろうか?
私がプロレスを見はじめたのは、中学生の時だ。猪木は、プロレスラー以外の格闘技者との数々の戦いを重ね、すでに伝説だった。一方、当時の馬場さんと言えば、タッグチームの味方選手がロープに振った相手がロープの反動で戻ってきた時に、大きな足を相手に向けるだけ。相手がその大きな足にぶつかり、倒れるシーンを毎回繰り返していた。日本プロレス時代の馬場さんが全盛だった頃を私は知らない。私には馬場と猪木を比べるべくもなかった。
そして、「最強」という言葉自体も、私の世代すでにファンタジーだった。
ボクシングの世界にはマイク・タイソンがいた。
国内だけ見ても、大山倍達が開いた極真カラテが寸止めしない空手の大会で強さを決め、パンクラス、UWFといった試合にエンターテインメント性を求めないスタイルのプロレスや格闘技があった。その数年後には、K-1グランプリが打撃こそが最強だと言わんばかりの興行を行っていた。プロレスだけでも、複数の団体に強い選手が分かれていて、誰が最強とはもう言えなかった。
最強を語る時に、「馬場」と「猪木」の二択なんて選択肢の時代ではなかった。
プロレスを楽しみにしていた中学時代
中学の時に話を戻そう。そんな混沌とした時代であってもプロレスを見ることは楽しかった。プロレスラーは確かに強かった。私は、主に土曜夕方の「ワールドプロレスリング」の新日本プロレスの試合を楽しみにしていた。海外から帰ってきた武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士、佐々木健介が目立っていた時代だ。週刊ゴングと週刊プロレスは、街の本屋「ブックマート日の出」で立ち読みしていた。
アントニオ猪木を試合で見ることがあったが、伝説が、地上に降りてくるような感覚だった。しかし、強いだけじゃなく、はっきりと衰えがあったと思う。先生のように「馬場か猪木か?」を語れた時代はどれだけ幸せだったろう?
でも、私が中学生の時、活躍していたプロレスラーは、誰も彼も、猪木を見ていたように感じていた。対等にケンカを売ろうとしているように振る舞っても、その心には猪木を見上げているように感じた。
そんな猪木の強さを直接知らない私にとっても、こんな映画が公開されているとあっちゃ劇場に行かないわけにはいかない。
『アントニオ猪木をさがして』
スクリーンに躍動する猪木を見ていて、あぁプロレスが好きだったんだなーという自分の気持ちを思い出した。大好きだったマサ斎藤さんも、どんだけヤバいんだと思っていた長州力さんも、誰も彼もが、猪木さんあってのプロレスラーだった。
猪木の引退(ドン・フライ戦)は98年。私が大学4年生の時だ。高校の時はほとんどプロレスを見ることもなかった。大学の時は、たまに切り替えたチャンネルで流れているプロレスをテレビで見る程度になっていた。それでも、95年、武藤vs高田戦を東京ドームで生で見たことが私の自慢の一つだ。
私のプロレス視聴、プロレス観戦は、猪木の引退した時期に完全に終わってしまった。
映画館で動く猪木を見てしまってから、体が熱を持っているようだ。スクワットでもしないと眠れない。体をパンプアップしないと街にも出れない。そんな気分になることは最近なかった。またプロレス見ようかなという気分になっているところだ。
映画を観終わった後、「ワールドプロレスリング」のオープニング曲「The Score」を聞きながら意気揚々、新宿の街を闊歩した。途中、自信満々な表情の私を見た、変な輩にケンカを売られなくてよかったと思う。売られたら強くなった(と思いこんだ)私は絶対にケンカ買っていただろう。