【書評】地平線を追いかけて満員電車を降りてみた
今回紹介するのは、紀里谷和明さんの著書『地平線を追いかけて満員電車を降りてみた』という本です。
この本は、悩みを抱える複数の主人公が、劇場を運営している初老の支配人と「対話」を繰り返しながら、徐々に自分の心の内を解き明かして悩みを解決していくというストーリー形式で進んでいく話です。(形式としては『嫌われる勇気』や『夢をかなえるゾウ』に似ているかも)
自己啓発本はあまり読まないのですが、本書からは得られた気づきや学びがたくさんあったので、それらの学びを3つのポイントに絞って紹介していきます。
①〈大人の心〉と〈子どもの心〉
本書には〈大人の心〉と〈子どもの心〉という言葉が繰り返し出てきます。
それぞれどういうものかというと、〈大人の心〉とは「論理・頭脳・計算」のような、常に合理的な判断を下す利己的な存在です。
主な判断軸は、「得か損か?」「利益か不利益か?」「安全か危険か?」というもので、比較したり数値化したりして、合理的に判断を下します。いわば〈大人の心〉は、何かを達成するための「道具」です。
一方、〈子どもの心〉とは、「ハート・感情・無意識・直感」とも呼べる、情緒的であいまいなカオスのような存在です。 主な判断軸が、「好きか嫌いか?」「楽しいか悲しいか?」という、明確な境界線が存在しない感情に根差したものです。
これだけだとまだ分かりづらいと思うので、具体例を出します。
たとえば、ある高校生(Aくん)が親の病院を継ぐために医者になろうと考えています。 父親も、Aくんには将来立派な医者になって病院を継いでほしいので、医学部の受験に特化した塾に入るように勧めます。
しかし、この少年の心は揺らいでいました。 なぜなら、Aくんには医者ではなく「アーティストになりたい!」というまったく異なった夢があるからです。
今までは、家族からの期待に応えるために「医者になる!」と言っていましたが、 実は夜な夜なネットでアーティストたちの作品を鑑賞しては「いつか自分も人の心を震わせる作品をつくるアーティストになるんだ!」と胸を熱くしていました。
そう、まさにこの少年の心には先ほど紹介した〈大人の心〉と〈子どもの心〉が混在しています。
〈大人の心〉では、「自分が医者を目指せば家族のみんなも喜ぶし、給料も良いからきっと裕福な暮らしができるだろう」 という考え方になります。
一方、〈子どもの心〉では、「自分がなりたいのは医者じゃなくて、 もっとたくさんの人々に感動を与えられるアーティストなんだ!だから、むしろ美大に行って、もっとアートについて学びたい!」 という考え方になります。
もし、この少年が〈大人の心〉の方を優先するのなら、家族の期待に応えながら本当の自分を押し殺して生きる人生。つまり、他人に自分の人生を操られながら生きていくことになります。
やけに物騒な表現になってしまいましたね。でも事実でしょう。
しかし、〈子どもの心〉を尊重するのであれば、「アーティストになりたいと言ったら、きっと猛反対されるだろうけど、それが自分の本当の気持ちだからきっと後悔はしないはず」という、自分の人生を自分で切り拓いていく、爽やかな生き方ができます。
さて、ここからが核心部分です。
本書では、〈大人の心〉を「社会の中で自分を守るために身に着けた鎧のようなもの」だと表現しています。
「自分がどうありたいか」よりも、「周りがどうであるか」をつねに意識し、自分の心を蔑ろにしてしまう。 これは、主に大人の世界を渡り歩いてきた人たちが、知らず知らずのうちに身に着けてしまう厄介な鎧です。
たしかに、場合によってはこの〈大人の心〉を優先したほうが良いときもあるでしょう。 しかし、世の多くの大人たちは、自分の〈子どもの心〉に対して「聞こえないフリ」をかましています。
実際、リクルートワークスが行った「全国就業実態パネル調査」(2018)によると、「仕事に満足している」と答えた人は、わずか 39.9%で、半数以上の人は何かしらの不満を抱えながら生きています。
それに対して〈子どもの心〉は、「人の目なんて気にせず、やりたいことをやってしまう心」。おもちゃに飛びつく子どものように、「自分の気持ちに従い、自分がやりたいことをやる」 マインドを持っています。
僕が本書の中で特に印象的だった言葉がありました。
”「天才と凡人に差は、自分の気持ちを押し殺せるかどうかである」 ”
もし、先ほどの少年が、”自分の心を押し殺せてしまう”人なら、本当はなりたくもない医者を目指し、心のどこかで一生後悔を抱えながら生きていくのでしょう。
ですが、もし、先ほどの少年が、”自分の心を押し殺すことができない”人なら、自分の信念や気持ちを貫き、とことん自分の未来を追求していく、爽やかな人生を生きていくことができるでしょう。
世間で「才能がある」と言われている人たちは、自分の心の中に“どうしても押し殺せない何か”があるだけなのかもしれません。
この文章を読んでくれているみなさんも、何かの決断のときに、自分の心が「違うよ」という声を発していたら、それは〈大人の心〉を優先してしまっている合図かもしれません。
②大人になったらどうありたい?
「将来の夢はなに?」
これは誰もが聞かれたことのある質問だと思います。 そのとき、みなさんは何と答えていましたか?
僕は小学生のときは「社長になりたい!」、中学生のときは「外務大臣になりたい!」、高校生のときは「世界を飛び回る商社マンになりたい!」と言っていた記憶があります。(笑)
きっと、みなさんも僕のように「具体的な職業名」で答えていたのではないでしょうか?
しかし、これが意外と大きな落とし穴になっているんです。
この「将来の夢は何?」という質問によって、多くの人は「自分は将来、世間から認められるような名前のついた“何者か” にならなくてはならない」という強迫(固定)観念を植え付けられてしまうのです。
もちろん、周りの大人たちも悪気があってこんな質問をしたわけではないでしょう。
本書には、主人公のひとりである会社員の男性が、本当にやりたいことを仕事にするために独立した同僚と比べて、「夢を持っていない自分」に強い劣等感を抱いてしまうシーンがあります。
明確にやりたいことがないから日々をとりあえず惰性で過ごす。 本当は「何か違うな……」と感じているんだけど、その正体がわからない。
この主人公のように、自分の熱の矛先がわからず、日々をなんとなくの惰性で生きてしまっている人は案外多いと思います。
では、そんな人はこう考えてみてはどうでしょうか?
「自分は将来、“どうありたい”のか?」と。
さて、ここからが核心部分です。
「どうありたいか」を考えるとき、必ずしも具体的な職業の名前で答えることは求められません。
「毎日を楽しく生きている大人になりたい!」
「自分は人にやさしくできる人間になりたい!」
「きれいな奥さんと元気な子どもに囲まれながら生活したい!」
というように「自分は、どうありたいのか?」と考えることで、型に当てはめることなく、自分の将来を自由に考えることができるようになります。
そのあとに、「じゃあ、この状態を実現させるために自分は何ができるか?」と考えを深ぼっていくことで、“ある程度の行き先”が掴めてきます。
もちろん、このときに考え出された結論が、たとえ今の自分には到底成し得ないことでも気にする必要はありません。意図せず「そう思ってしまった」という感覚が大事だからです。
「そう思ってしまった」ことを実際の行動を通じて、肉体に落とし込んでみましょう。 そうすれば、新しい自分のホンネと向き合うことができるかもしれませんね。
③人生の幸福は感動の総量で決まる
「人生の幸福は感動の総量で決まる」という言葉は、本書の三人目の主人公のセリフです。 個人的に、妙に納得できてしまったので結構気に入っています。(笑)
これは共感してもらえる人が多いんじゃないかと思いますが、せっかくの休日に一日中部屋でゴロゴロして、携帯いじって、気づいたら寝てて…… みたいな生活って、楽かもしれないけど何だか「1日を壮大に無駄にした感じ」がしませんか?
楽ではあるけど、楽しくはないですよね。
でももし、その休日に一度も行ったことがない場所に旅行していたら。その日は充実感に満ちて、新鮮な気持ちを存分に味わい、強く印象に残る日になるはずです。
果たして、その2つの休日の最も大きな相違点は何なんでしょうか?
それは、「どれだけ感情が動いているか」です。
1日中ダラダラと過ごしている日は、ほとんど感情が静止している状態ですが、自分の知らない土地へ旅行に出かけると、そこには自分の知らないお店があって、角を曲がると何があるのかさえまったくわからないので、妙にハラハラした感覚に包まれ、様々な自分の中での感情の変化を味わい尽くすことができます。
「人生の幸福は感動の総量で決まる」という言葉を見つけた主人公も、自分の感情の源泉をていねいに深ぼってみたことで、「なぜ自分が今の状態に満足できていないのか?」「これから自分はどう生きていきたいのか?」という問いを立て、自分なりの答えに巡り合うことができました。
「人生の振れ幅は、どれだけ感情が動いたかでしかないんじゃないか」。これまでの自分の人生を思い返して、真っ先に出てくるのは、自分の感情が大きく動いた体験をしていたときだということを思い出すのです。
この本でもう一つ印象に残った言葉があります。
”「人生とは所詮、遊園地に入って、そこから出るまでの時間でしかない」”
最初は「人生が遊園地ってどういうこと???」と思いましたが、読み進めていくうちに段々と断片的に理解できました。
ディズニーランドのような遊園地を思い浮かべてみると、わかりやすいです。
みなさんも一度はディズニーランドにいったことがあるかと思いますが、その時どうしますか? 当たり前ですけど、めちゃくちゃ楽しみますよね?
パーク内にいる間は、「次はあれに乗ろう!」「あれ食べようか!」「パレード見ようか!」 と、興奮しっぱなしだと思います。(想像すると行きたくなってくる)
でもいくら楽しんでいても、閉園時間が来てしまったらディズニーランドから出なくてはいけません。 楽しいことには終わりがあるものです。そう考えると、「人生も同じなのではないか?」ということに気づきます。
本来なら、人が何をしようが、何を目指そうが、どんな体験をしようが、他人に大きな迷惑をかけない限り自由なはずです。 せっかく限りある人生という“時間”をもらえたなら、ディズニーランドにいる時と同じように、楽しまなきゃ損ですね。
ですが本書にもあるように、遊園地を自ら「監獄」にしてしまっている人もたくさんいます。
いつも誰かの目線を気にして、誰かが決めたレールの上を走り、勝手に苦しんでいる・・・ 。
誰も自分のことなんて見てないのに、誰かに強制されているわけでもないのに、他者からの評価を気にして、自分で自分を締めつけている人がいる。
それはまるで「監獄」じゃねぇか、と。
もちろん、この本は、「100%自分のやりたいことだけをやれ!人がどう思うが知ったこっちゃない!」という極論を言いたいわけではないです。
この『地平線を追いかけて満員電車を降りてみた』という本が伝えたいのは、「ひとり一人が自分に問いかけから、自分なりに考え抜いた答えを持つことの大切さ」だと思います。
もしかしたら、その「問い」や「答え」(地平線)を自分なりに模索することが、世間の常識や決めつけ(満員電車)から解放されるための第一歩になるかもしれませんよ。