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【民俗学漫談】SNS時代の個性

現実感を求める

イチローが大リーグが頭を使わなくなっているといっていました。

何を使っているのかといえば、データでだそうです。

データを基にして、最も効率の良い方法をとっているだけだそうで、はたして、それは野球なのかという話でした。

翻(ひるがえ)ってみると、この状況は、何も大リーグの野球に限ったことではないようにも見えます。

ゲームの主人公は、もてますね。
放っておいても、ストーリーが進み、成長や解決に導いてくれます。
試練は現実に比べたらまさにゲームであり、現実よりもはるかに合理的で科学的であるかのように作られています。

ゲームなどを見ても、映像が突出していますし、セリフも声があてられていたりと、リアルですね。

主人公の覚醒シーンもいきなりゲーム画面からアニメーションになったり、画面もデコレーションがありすぎたり。

感動でさえ、『ここで感動しろ』と言われている気がします。

高橋留美子も、『ロマンスさえあればリアリティは必要でない』と言っていた気がします。

かなり前の話ですが、ダウンタウンが見ている客が思ったところで笑わないのに苛立って、テロップを入れ始めたと言っていたのを覚えています。

そのあたりから、今のように、話し手のセリフを画面にテキストで示すようになったようですが、それは自分が小説を書いていたからよくわかる話です。

従うことでは、スマホの入力のサジェスチョンというものがあります。

言葉というものは、自分なりに情況の中で培った上で身に着けているものでありますから、本来、正しいも正しくないもないのですが、実際に入力してみると、自分のつづけたい言葉が出てくることが少ない。

それで探すことになりますが、『てにをは』からしてもどかしい。

間違っていなければいいや、と適当に選ぶ。

見直すと、文法的には間違っていないが、日本語の感覚ではそういうつなげ方はしないだろうというような文章になる。

サジェスチョンは大量の人々の利用を元に示しているわけですが、そこにあるのは、量であって、時間や空間ではない。

人の言葉は時の中で、その人が生きた環境によって作り上げられたものであるから、その人独自の言葉というものがあるはずでありますが、サジェスチョンにはそれがない。

世界に対する情報の編集統合の仕方が個性でしょう。

映像で見た記憶と、実際の目で見た個人の記憶と、その場を離れてしまえば違いなどないように思われます。
触覚や嗅覚は映像では再現できませんが、しかし、それらは記憶が薄れやすい。

娯楽のプロフェッショナル化

本来、娯楽であったものが、プロの職業となり、報酬を求めて競争を始めると、当初の遊びの感覚が消え、いかに効率的に目標を達成するかの作業となってしまう。

それは、ゲームでも同じでしょう。

供給が需要にこたえるのではなく、供給が需要を生み出している。

機能的、合理的に生きようとするのは、まったく機能的でも合理的でもないかもしれません。

すべてを律する、時代と言うものの決定的な力と言うものはあるでしょう。

2020年の年末にニコニコ動画もFlashで閲覧できなくなりました。他もFlashが終了し、インターネットの界隈が、もう単なる現実社会の一つの土台、もしくは拡張になったのに合わせるかのようにFlashのサービスが終了していったような感もあります。

一昔前までのその場所は現実と重なりつつもやはりずれがある並行世界のような感覚がありました。

動画もネットも十年前と雰囲気が違ってしまいました。

昔はコピー本のような面白さがありました。

虚用としての本質を貫徹しているようにも見えました。

かつてのネットは、現実の儀礼や作法とは別物のルールや文化があり、簡単なユーモアが溢(あふ)れている場所でした。

能は物語を、歌舞伎は役者を見るもの。

うろ覚えですが、そのような話を聞いたことがあります。

『ソシャゲ』と呼ばれるジャンルは、そのような意味での歌舞伎に近いのでしょう。

ゲームをしているのではなく、役者ならぬキャラクターを見たいのでしょうし、また好きな声優の声を聴きたい、ゲームはその媒体、舞台に過ぎないのでしょう。

でも、おそらく、自分がゲームのディレクターになったら、同じことをするのだろうとも思います。

若いほどエネルギーに満ちている。しかし、どこに向かってその情熱を注げはいいのかわからない。

すでにつくられた様々なジャンルのエンターテイメントに向かうのか。またはゲームのようにその内部で目的がわかりやすく設定されているものに向かうのか。

『完成されているものはかえって信用しないし、完成していないものを好む』という傾向がYoutubeやソシャゲに向かうということでしょうか。

Youtubeは同人活動ですよね。
編集を通らないものをどんどん見せているわけで。
流通で決まった形式に乗せなくていいわけで。
本だったら何ページ以上と決まっているものが同人誌なら十六ページでも、八ページでもいいわけですし。
映像なら、それこそ何分だろうが何秒だろうがいいわけで、もとは自分が好きなものを見せている者が、やがて、売れるものを作るようになるのも同じか。

映像版のコミケみたいなものですね。

素人だろうが、面白ければ受けるわけだし、実用書的なものよりは、きれぎれのうんちくであったり、それぞれの日頃のせいかであったり、どこか学園祭的な感じなもので十分であることがわかる。

しかし、今や大衆のゴシップ好きが進むところまで進んだ感があり、素人だろうが、著名人だろうが、他人の日常を映像として知りたがる、日記漫画的なものがあるらしい。
登場人物が見慣れるか、もしくは見られる僧坊であれば、それはすでに漫画的なキャラクターなのである。

小児のころから漫画やアニメに親しめば、他人はキャラクターとして存在したくれたほうが安心なのでしょう。

その最たるものがVtuberなのでしょうか。

『ソシャゲ』で言えば、画面を見続けていると、どうもそこにある情報が重要なものと思えてくる。
うきうきして、自分に何かすばらしいものを与えてくれるかのように感じてくる。
立ち上がって、青空でも見ればそんなことはない気がしてくる。
それは、現実で欲しいと思った対象に熱を上げて、思慮が他に及ばなくなるかのごときものです。

ふと思います。

かつての一億総中流のように平均化した社会で今のネット環境があったらどうなるか。


ヴェニスの商人
世にむき出しの悪というものはない、かならず大義名分を表に立てている物だ。

老子
技巧多くして、奇物滋々起る

今の時代、あらゆることが幼稚化しているようである。
テキストが読まれなくなり、読まれるものは、『お話』の類か、『うまくやるコツ』が多くなり、ビジュアル表現全盛となり、以前はグラフィックデザインで表現され、伝わっていたものが、モーショングラフィックとなる。
その動画でさえ、今や、短い動画の方がPVが多くなっている。

大学のオンライン授業の教員向けの手順書では、『幼児向けの番組やYoutuberを参考にしましょう』と案内している。
それが偏差値70程度の大学においてでさえそのような案内をしている。

わかりやすくなるかもしれない。

しかし、与えられた情報を自分なりにその時々の頭で受け止め、模索し、編集するから身に着くのであって、
わかりやすく伝わることを第一としていては、脳神経が発達しないのではないのか。

知識と知識がつながり、その人なりの知恵となるには、情報伝達をたやすくすればよいというものでもない気がする。


では、大人に対してのメディアが小児向けが進んでいるのなら、小児向けはどうか。
例えば、学習雑誌を見る。
小児に対しては小学館の小児向けの雑誌の付録はむしろ資本主義への手引きのようになっている。
そして、大人がそれに反応し、SNSで話題にする。
かつて、小児向けの付録に反応する大人がどれほどあっただろうか。
思うに、今の大人というか、作り手は、自分が楽しいということをあまりに優先しているように思われる。

大人が幼稚化するということは、畢竟、小児を小児として扱うのではなく、人生の後輩としてしか扱えなくなるということではないか。

今の付録は、遊びというより、トレーニングであって、小児それぞれの気分や志向に沿って、勝手な遊びをしにくくなっているのではないか。

小児の世界を金儲けの魔力や精神の平坦化から守るべきものを、貨幣の自由さを教えるのではなく、金銭欲をあおっているのではないかとさえ思います。


作り手は、自分が考えた通りに扱ってもらい、その経験の先にどういう状態になってもらいたいか、そのような考えで作っていまいか。

プレゼンのし過ぎである。

その流れを利用できれば活躍できるだろう。

しかし、受け手が幼児化しているのではなく、教える側が思い通りに伝わらないと満足しないから、徹底して伝えることだけを考えているということはなかろうか。
相手の個性や状況によって育まれてきた考え方に沿って自由に解釈してもらえばいいという考えが薄れている気がする。
相手を見下し見くびっていることはないか。
文章や映像、ゲームに至るまでの短縮化もたやすく伝わり、たやすく数字に出るから。
受け手側ではなく、伝える側の考え方、むしろ気分の問題なのではないか。

セミナーやカウンセリング、マネジメントなどというものも猖獗を極めているが、一見、親切に相手のために教えている風でありながら、その実、自らの手法を試み、ノウハウを蓄積して、自らの仕事に生かそうとしているだけではなかろうか。

まともな頭の持ち主は窮屈に感じているだろう。
トレーニング、セミナー、やるべき、やった方がよい。
そのような事柄に慣れたものが、まともな頭の人に対して、あたかも精神が病んでいるかのような会話をしてくる。

いわば、『できていない』ところを探る癖がついている。
どこか、その人の精神の歪みを探ろうとしてくるために、健全で自信のあった人さえ、そのような『カウンセリング』や『マネジメント』に慣れた連中と話していると苛立ちを覚え、果ては自信が薄れることさえなりかねない。

結局、自分の能力を誇示するために人を利用しているだけではないのか。

話していると疲れるし、特徴としては次のようなものが挙げられる。

人にレッテルを張りたがる。

他人の噂話をよくする。

何かにつけ、倫理道徳を持ち出し、『自分は違う』というところまで苛立ちまぎれに話す。

会話というより、次々に掘って質問をしてくる。

雑談をしていても、何から何まで話したいわけではないし、また、そこまで考えていないで何の気なしに話すことが多いものであるが、そういう者は、ある事柄について、話す側が引いている一定のラインを乗り越えようとして、質問をしてくる。だから疲れるし、どこか厭な気分にさえなるのである。

それをなんとかリスニングだか知らぬが、コミュニケーションのテクニックと思い込んでいるらしいが、そんなものはコミュニケーションでも何でもない。

こういう者は、善も悪も知っていると言いつつ、善も悪もさらには善でも悪でもない、多くのもののことが理解できないのである。

話をしている間、相手が、体や顔を別の人に向けている、質問をされた時だけその方を見て、しゃべるときは別のまともな人の方を向いていることにさえ気づかないのである。

利口でありながら鈍感な者にありがちな話であるが、時代が次第にそういった者の『論理』が通りやすくなっているようである。

そういうものにしても、本来、まともな感覚の持ち主であれば感ずるような能力を功利的なものに割いているにすぎないのであるが。

今の時代は、個人の感情や感覚といったものを論理で抑え込もうとするが、その論理など『個人の感想』に過ぎないことはまともな頭であれば、気づくわけである。
その感覚を抑え込むために、今や地位であるとか、将来であるとか、さらには消費であるとかをちらつかせて抑え込もうとする。
それが続けば、結局は自分のことも比較でしか評価できなくなり、最もたやすい比較の方法である数字に行きつく。
学生ならば偏差値であり、大人なら収入ということになってしまう。

snsは誰でも芸能人気分を味わえるメディアなんですよ。見せびらかせるわけですからね、芸能人は。それを羨望のまなざしで見れば、自分も似たようなことがしたいと思うわけです。

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