アーセナルという幹 #2
先日私のサッカーとの軌跡みたいなものをアーセナル軸でやや長尺で、一見理解しがたいようなタイトルで執筆をさせて頂いたがその中で述べた、私が魅せられ、キーワードとも用いた造語「ロマン・ヴェンゲル・アーセナル」について、前記事では記しきれなかった事を#2として固有名詞を大いに出しながら深掘りしコラム的要素を持って記したい。
メスト・エジルという魔法使い
早速。先述するよう前記事では、特にヴェンゲル監督末期迄の経過に視点を置きいちグーナーとして私がどう楽しくアーセナルを見てきたかをあれこれ好き勝手に。
そんなその頃を象徴するといっても過言ではないのがこの題の男。トルコ系移民3世であるドイツ人は、アーセナル史上で最もサプライジングでその上成功したデッドラインデイにおけるニューフェイスの一人で、過去のレアルマドリードやドイツ代表での姿、そしてノースロンドンで過ごした約7年はワールドクラスとして私達サポーターの記憶にも未だ新しい。選手キャリア晩年は彼のピッチ内外での振る舞い等もあり悪い時も過ごしたことだろう。
では何故このレフティーのマジシャンが「ロマンヴェンゲルアーセナル」を象徴するのか。
それはヴェンゲルが本当に望みピッチで選手達に表現して欲しい、「美しいサッカー=現実的というよりは、より高度なレベルが必要とされそこに浪漫を求めるサッカー」、これを一番に体現できる中心にいたのがこのメスト・エジルという選手だったと私は考える。
スキルフルな選手達がテクニカルに、守備網中央の狭いスペースをドリブルでもかいくぐりながら少ないタッチ数で小気味よく細やかなショートパスを繋いで崩し、相手ゴール方向に前進していく。私もその一人だが見るものをワクワクさせるサッカー、美しいサッカー、とここではそのように紹介させてもらう。ヴェンゲルアーセナルのトレーニンググラウンドで、フィールド中央に等身大フィギュアを狭い感覚で数体立てその隙間を短いパスのコンビネーションですり抜けるという練習を長時間かけて行う風景がよく見られたのも、相当のこだわりを持って理想を追求していたかがわかる有名な話だ。
それらは育ててきたもしくは獲得してきた選手個々を見てもわかりやすく、ネームのあるところだとセスク・ファブレガスやナスリにロシツキー、私が見ていた絶頂の頃はエジル含め、カソルラにウィルシャーとラムジー、更にはフラミニすらもそういった成長を遂げた。タフなプレミアリーグを戦う上で、サイズ的には一見大きいと言えない小柄な選手であっても足元に自信のあるキャラクター達をスカッドの中心に据え置き、サッカーを展開していたことからもヴェンゲルイズムというものが垣間見えるだろう。
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今のサッカーにおいて良い選手の前提として求められる大きな要素の一つに、「アスリート能力」というのが真っ先に挙げられるだろう。フィジカル面において簡単に言うならスタミナや体の強さや速さ。その中で「ファンタジスタ」や「テクニシャン」のような、特徴を紹介する際に口にしたくなるカッコイイ横文字タイプの選手は言うならば今ドキではなく、現にマイノリティだろう。エジルのような「古典的」な10番タイプと言われるのもそれで、「10番」の選手といっても現代では守備面においての献身さ、前線からのプレスやネガティブトランジションでの強度のある貢献等、泥臭い役回りもできて一貫性のあるハードワークが必要とされているのだ。
多く選手名を出した段落での彼らがいたからこそ、ヴェンゲルの美しいサッカーというものは見れたと思われるし、その中でやはり個人的には「王様」としてのエジルは特に魅了された。しかし前段で話したような古典的10番のエジルがヴェンゲルが乗れなかった時代の波と共に、更には後任者のエメリ監督の下でも出場機会を減らし、ヴェンゲルとは打って変わって守備を基盤とした戦術をチームに落とし込みたいスペイン人指揮官の構想には事実、含まれていかなくなった次第だ。
そんな「王様」が第一線から徐々に消えていったことは、ヴェンゲルアーセナル終焉の代名詞として私の中では印象深く語り甲斐があった。
おまけ
余計なおまけ話として完全自己満足で、まだまだひよっこだがいちグーナーとして信用のありそうなコアであろう思い出を適当に振り返り、一旦これをもってアーセナルトピックを締めさせて頂きたい。