あの日
きょうは、アルバイト先の仲間だった学部の先輩の法要に参列した。
彼女が突然に、そして衝撃的に旅立ってしまってから、28年が過ぎてしまった。
平成8年(1996)のあの日、大学2年生だった僕は前月末までフランスを旅していて、時差ボケが残っていたところに、F1中継を前夜に観てしまい、日本に戻りかけていた時間の感覚がまた欧州になってしまっていた。
当時、友達とのコミュニケーションはもっぱらイエデンだった。
インターネットや電子メールは大学の電子計算機センター(デンサン)に出向いてやるものだったし、携帯電話は徐々に普及しつつはあったけれど通話以外のことは出来ず、ショートメール機能が備わるのは翌平成9年のこと。
あの日の午後、ようやく目が覚めた僕は大学のデンサンに出向いてパソコン(Windows3.1のPC-9821もしくは漢字Talk7.1のPowerMac)をいじり、夕方帰宅した。
夜、大学の先輩から電話がかかってきた。
落ち着かない口調で
「さっき日テレのニュースでね、小林順子さんって……」
訳が分からない僕は、慌ててテレビをつけてみたが、フジテレビのFNNニュース845がちょうど終わるタイミングだったと記憶している。
先述の通り、インターネットは自宅で見るものではなかったので、ネットニュースにアクセスすることはままならず、そもそもネットニュースの質も量も高くはなかったし、即時性のある情報はテレビだけだった。
チャンネルをNHKに変える。
NHKのニュースは、上智大学の女子学生が殺害された、と実に淡々と報じた。事件は起きていた。
彼女と僕は、会社事務のアルバイト仲間というだけで、下町に住んでいるということは聞いていたけれど、連絡先は電話番号だけで自宅の住所も知らなかった。
個人情報に関わる社会通念上の考え方が今とは違って、学科やサークル内で自宅や実家の住所や電話番号を名簿にして配ったりするのが普通だったから、近しくなればそういう情報は知っているものだったのだが。
9月から留学するという話はかねて聞いていたけれど、英語学科での専攻が何なのか、留学先で何をするのか、どんなご家庭なのか、カレシとかいるんですか、とか、いくらでも聞く機会はあったはずなのに、僕はなぜか自分から話題を振らかなかった。
前年入学した大学の学科の女子校状態に圧倒されてしまい、ヒト科のメスというものに対してどう距離をとって対峙すべきなのか、もとよりコミュニケーション能力が高くはない僕は、とりあえず自分の垣根を築いてしまっていたのだと今にして思う。
実は厳しいご家庭で、学生がアルバイトなどけしからんというご尊父の方針があったけど、要領よく親の眼の届かぬところでアルバイトをしていたという話は随分あとになって人づてに聞いた。
不慮の事故や病気で仲間が身罷るというのは、中学生の頃同級生が亡くなっているので経験済みではあったけれど、殺人放火事件という未曾有の出来事に僕はただ動転していた。
いまなお、犯人の手がかりがつかめないというのは異様としか言いようがないけれど、K察の捜査が杜撰ということは断じてないといえる。
僕自身、何度か大学近くのルノアールで任意の事情聴取を受けて唾液の提出にも応じたし、アルバイト先の社員に至っては亀有署に出頭を求められ半ば犯人扱いされるような取り調べを受けた人もいたという。無実の人たちにすれば失礼千万な話ではあるけれど、被疑者になり得る人物の可能性を一人ずつ潰してゆくという、捜査の鉄則を彼らはキチンと守っている。
事件のあと、2週間で体重が5キロも落ちた僕を見て
「ミズノお前大丈夫か。本当に大丈夫か」
本気で心配してくれたアルバイト先の次長は、いまや代表取締役社長になられた。それだけの時が流れてしまった。
最後に会ったのは、7月半ばにバイトメンバー間で夏休みのシフトに向けたミーティングをした時。
彼女は夏らしい白い編みサンダルを履いていたのを覚えている。
「それじゃ、またね」
「ええまた、さようなら」
あの挨拶から、またねのまたは来ていない