«1995» (12)
大学受験が始まる前、2学期くらいだったと記憶するが、担任と1対1での進路相談があった。
担任は英語の先生だったのだが、第1外国語にフランス語を選んだ場合、受験シフトになる高3では英語の授業はなくなるので、担任なのに受け持ちの授業がないといういささか奇妙な関係だった。
この先生、中2の頃«or»を「然らずんば」と訳したところ、文語体に触れたことのなかった我々生徒たちが「何じゃそりゃ?」と、今で言う祭り状態になり「シカラズンバジジイ」なる仇名が即日流通したことがあるのだが、そのシカラズンバジジイが曰く
「そうか、水野はフランス語の勉強を続けたい、と。学力としては、今のままなら問題ないと思うけど……」
ひと息置いて、
「フランス語をやって将来就職すると、まぁ、間違いなくアフリカに飛ばされるよ」
とニヤニヤしながらのたまい、続けざま
「まぁ、君ならどこ行っても生きてゆけると思うけど」
と、褒められているのか貶されているのか分からないご高説を賜ったものだった。
さて……
僕が第一志望の上智大学のみならず、慶応大学にも合格したことで、フランス語の先生たちの間で
「ミズノは慶応に行かせるべきだ、フランス語は別途勉強すればいい」
「いや上智でフランス語を続けたほうがいい」
などと、当の僕のいないところで勝手な議論が始まっていたらしい。
先に述べたように、«実の親»たる担任に習っていないこともあって、日頃から、我々フランス語選択者のオーナーシップは«育ての親»のフランス語の先生方にあったのだが、その先生方は、将来僕が母校のフランス語の教師になることを期待してもいたようだった……
僕は僕で、大学では法律よりもフランス語の勉強を続けたかったので、慶応に進む考えは全くなかった。偏差値とかブランド価値だとか、後の就職活動も考えれば慶応に進むほうが楽な人生なのかもしれないが、両親とも上智に進むという僕の考えをあっさり認めてくれた。