第3回「能登はやさしや」を体現する人たち—著者から②
著者の藤井満さんによる、自著(とその周辺)解説を、5回にわたってお届けします。2011年5月に輪島支局へと異動となった藤井さん。ことば通りの「能登はやさしや土までも」に出逢えたのは、人々が暮らす山や海の集落でした。
能登の集落で奥深き「やさしさ」に出逢う
「能登はやさしや土までも」という言葉を最初にきいたのは、輪島市長の定例記者会見だった。輪島市役所にはすばらしく優秀な職員もいるのだけど、組織全体としては硬直していて「やさしさ」の対極にある印象だった。だから、「能登はやさしや土までも、というほど能登はやさしいところで……」という市長の発言には正直言って鼻白んだ。
でも市役所をでて山や海の集落を歩くと、そこかしこに奥深い「やさしさ」がころがっていた。
たとえば輪島市の山中にある大西山という人口50人の集落では、ある女性が1980年代に水仙の球根3個を買って植えた。それがねずみ算式に増えて集落中で栽培するようになり、30年後には、毎年春に数万輪の水仙が開花する「桃源郷」となった。
「みんなで仲良く美しい里をつくり、まちにでた子が『すばらしい故郷だ』って自慢できて、帰ってきたらゆっくり休める場にしていきたい」
住民の男性はかたった。
水仙を植え、雑草をぬき、無償の労働で美しい里をつくるのは、子や孫のためなのだ。自分が死んだあとの世代の幸せまで「自分ごと」と考える感性が能登ではあたりまえのように息づいていた。それこそが能登のやさしさではないか、と私は確信するようになっていった。
「孤立」状態、でもあかるさのある集落
2024年正月の能登半島地震で、奥能登は壊滅的な被害をこうむった。道路が寸断され、隆起で港がつかえなくなり、20以上の集落・地区が孤立を強いられた。ニュースでは「孤立」が能登半島地震の悲惨さの象徴のようにあつかわれた。
たしかに、けが人の救出・搬送や物資の供給は大変だった。でも私が見た範囲では、孤立状態にある集落は総じてあかるかった。
前述の深見集落は2007年の地震につづいて今回も12日間、孤立した。
住民は避難所につどい、各家から、餅やアワビ、サザエ、タコなどの食材をもちよって食べた。
断水で家のトイレはつかえない。男たちが田んぼに穴をほり、2枚の板をわたして、周囲をブルーシートでかこって仮設便所をつくった。
「12日間、おいしいものを食べて、トイレも気兼ねしないから、でるものも盛大にでたよぉ!」
取材に応じてくれた女性は笑いながらふりかえった。
輪島市中心部の漁師町でも、各家からもちよった食材を漁協の冷凍庫に保管してみなでわけあった。漁港にあるカニの生け簀の巨大水槽の海水を避難所の公民館にはこぶことで水洗便所もつかえた。漁船の発電機を公民館の配線に接続したから明かりもあった。漁師町の生業の知恵が災害時に存分に生かされた。
「孤独」を強いられて復興といえるのか
むしろ孤立状態が解消し、2次避難で金沢などにうつってから深刻な問題が増えていった。仮設住宅の完成がおくれ、地元に帰れない期間が長引くにつれて、孤独にたえかねて認知症になるお年寄りや死亡する人が続出した。
能登のやさしさと強さは、生まれ育った土地によってはぐくまれてきた。そんな根っこからひきぬかれたとき、人々は孤独の淵にさまようことになった。
東日本大震災では約5万戸の仮設住宅を8カ月間で整備した。能登半島地震ではわずか6800戸の仮設住宅の整備が10カ月たっても終わらない。
あげくのはてには、財務省財政制度等審議会の分科会が「復旧・復興にあたっては……将来の需要減少や維持管理コストも念頭に置きながら、住民の方々の意向を踏まえつつ、集約的なまちづくりやインフラ整備の在り方も含めて、十分な検討が必要」(2024年4月9日)と、被災前の姿への復旧を否定する立場をしめした。
震災は能登のやさしさをきわだたせたけれど、それ以上に、国の政治の冷たさをきわだたせたのである。
プロフィール
◆藤井 満(ふじい・みつる)
1966年、東京都葛飾区生まれ。1990年朝日新聞に入社。静岡・愛媛・京都・大阪・島根・石川・和歌山・富山に勤務し、2020年1月に退社。2011年から2015年まで朝日新聞輪島支局に駐在。奥能登の農山漁村集落をたずねてまわり、『能登の里人ものがたり』(2015年、アットワークス)、『北陸の海辺自転車紀行』(2016年、あっぷる出版社)を出版。そのほか単著に『石鎚を守った男』(2006年、創風社出版)、『僕のコーチはがんの妻』(2020年、KADOKAWA)、『京都大学ボヘミアン物語』(2024年、あっぷる出版社)などがある。