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詩の勉強会にて

今回の勉強会には
「多次元の母」を推敲して出した。
「御朱印帳」とどちらにするか迷って
「多次元の母」にしたのだったが。

言葉の使い方以前の
「人間を見る視線」について指導されてしまった。

言われてみればそうかもしれないと、落ち込んでしまった。

言われたことを書きこんでみる。


多次元の母           

認知症は、「まだら」でなくなったら幸せだという説がある
本当だろうか まずここ
       認知症とは診断とか社会通念とか思い込みとかに
       属するものである
       一人の人間を外側から決めつける
       思い込みの中に囲ってしまおうとしているような
       捉え方である。
       そういう見方は差別につながっていくのではないか。
       

だんだん言う事のつじつまが合わなくなると
「えっ」と聞き返されたり
「そうじゃなくて」と言われたり
「この前行った」といわれることになる。

         この受身表現、何を言おうとしているのか
         主体は誰か

妹がよく思い出すのは 
    妹が二人出てくるので要注意
「梅まつり」だそうだ。
一週間前に行ったことを、
母は思い出せなかったらしい。
会話の後、
しばらく考えていたようだけれど
結局出てこなかったかもしれないと。
      出てこなかったは 憶測でしかない
        憶測ではいけない

母はそれから程なく入院した

見舞いに行くと
北海道に長年住んでいる自分の妹について
「どうしてそんな遠いところに」と問う

そうかと思えば別の日に
北海道は寒かろうと言う
そうして話しているうちにまた
なにかしらあやふやになっていく

やふやなまま溶け出していく
溶け出して変質していく

記憶は混乱する
記憶は混濁する
記憶は混沌の海に呑まれる
後じさり 踵を返し
走り出しては止まる思考
   あやふやな から思考までは、最初の二行に連なる感覚なのでカット

母が話しているのはいつのことだろう
「記憶」ではなくあるはずだった過去なのか未来なのか
いくつに分岐しているのか
分岐のどこかでは
思うように生きられたのか

「私」という娘は
母の時間のどこかに存在しているのか、
聞いてみたい気もするのだ。

   この最後の2連だけ、褒められた。





カットしてつなげると以下のようになる。
もう少し加筆が必要か

多次元の母

同居していた私の妹がよく思い出すのは
「梅まつり」だそうだ。
一週間前に行ったことを、
母は思い出せなかったらしい。
会話の後、
しばらく考えていたようだけれど

その後 ほどなくして母は入院した

妹が見舞いに行くと
娘である私の話が、
いつの間にか母の姉の話に変わっていく

北海道に長年住んでいる母自身の妹についても
「どうしてそんな遠いところに」と問う

そうかと思えば別の日に
北海道は寒かろうと言う

母が話しているのはいつのことだろう
「記憶」ではなくあるはずだった過去なのか未来なのか
いくつに分岐しているのか
分岐のどこかでは
思うように生きられたのか

「私」という娘は
母の時間のどこかに存在しているのか、
聞いてみたい気もするのだ。

  ・・・・・・・・・・

全滅でなくて良かったし、参加者は元々上手な人も含めて
それなりに追及されていたので、
お前だけダメ宣言をされなくて良かった。

もっともそんな宣言は絶対しない人であった。
人格否定されるわけではないのに「私だけじゃない」 
とか思ってしまうこと自体、「人としてどうなの」なのである。


そこで、昨日の名言に戻るのである。


自分を突き詰めるなんて私には難しいのである。
「突き詰める事」自体が、今後の人生のテーマになってしまうのである。

それが必要なので、詩を学ぶことを選んだのかもしれないが。


「御朱印帳」もかなり手直しはした。(NOTEには反映していない)
こちらならどう評価されたのか考えたりする。
でも、「既成の見方に囚われるな」「人間固有を見る」みたいなことは
根本的な事だから、言われて良かったのだと思う。
どのみちどこかで指摘されていただろう。


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