
読書とは祈りである
眠ろうと思ったら
大江健三郎さんの「燃え上がる緑の木」の
「100分で名著」が始まってしまい、
つい見てしまったのだった。
宗教の教団を作ってしまった人。
暴走する人
殺されてしまう、前教祖
生まれ変わりのように現れる人。
やがてその人にも危機が訪れるが
次につながれる存在が示唆される。
(時代から考えるとオウム真理教の暴走の
ある意味先取りなのだが
今聞くと統一教会とも言えて)

本来宗教とは
魂の事を考えることなんじゃないかと。
祈るとは集中する事
苦しんでいる人に注意を傾ける事は
その人たちの存在を認める認識するということ。
意を注ぐとは祈りの純粋な形だろうと。
大江健三郎さんは
必要としている時に必要としている本に出合う
と言っていたそうだ。
自分の長男に深い愛情を持ち、
また、自分の死を長男がどう受け止めるのかも考えたという大江さん。
ずいぶんいろいろな本を読み、探しただろうと。
読書自体が祈りを捧げることかもしれない と
読書とは時として死者と共にあるということでもあるし。
効果のあやふやでない祈りなんてあるんですか
と問い返す言葉が作中にあるそうだが
その祈りを文学とか芸術などに置き換えてみれば
よくわかる、と解説の小野さん。
人文学的なモノが軽視され
高校の国語の教科書から
文学作品を無くそうという話もあるそうなこの国。
無くそうとすること自体が
実はなにかしらの効果を認めているという事かも知れないが。
文学の作中に違う作品の事が触れられていることがあり
この作品ではドストエフスキーやシモーヌヴェイユだが、
何か他の作品の中で語られることが
作品を次につなぐことになるのかもしれない。
ちゃんと勉強しなくては
と 改めて思わされた。
暇つぶしであろうとなかろうと
勉強しない理由にしてはいけないのだった。
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