旧約聖書から社会の合意形成について考えた
ぼくは、キリスト教信者ではない。
でも、教会の礼拝に参加して、聖書の話を聞くことが好きだ。
なぜキリスト教信者でもない(そもそも自分自身のことを無宗教だと認識している)ぼくが、聖書の話に興味を持つのか?を説明するのに、ちょうどいい話があったので、書き残しておきたいと思う。
旧約聖書創世記第9章18節から27節に、箱舟によって洪水をまぬがれたノアとその子どもたちの話がある。
ここからは、ぼくの意訳。
ノアは、ぶどう酒を飲んで酔い、裸で寝てしまう。
それを見たノアの3人の子のうちの一人、ハムは、ほかの2人の子セムとヤフェテに「父さんが裸で寝てる」と伝える。
セムとヤフェテは、裸の父を見ないようにしながら、父に着物をかけた。
目覚めた父は、セムとヤフェテを褒めるが、ハムに対しては「カナン(ハムの息子)は呪われよ」言う。
この話が意味するところは、権威とどう向き合うか?ということらしい。
権威が過ちを犯すこともある。でもそのとき、権威の過ちに対してどのような態度をとるのか?ということ。
この話の中では、権威とはつまりノアを指し、過ちとはノアが酔いつぶれて裸で寝てしまったことを指している。
そのような権威の過ちに大して、ハムは見逃すまいとして観察し、見たこと(過ち)を周囲に広める、という態度をとった。
セムとヤフェテは、過ちを感知しているものの直視せず、周囲に拡散しないようにした。
この話は、「権威」とは何なのか?を理解しないと読み誤る。
もし、権威を政治における「政権与党」とか江戸時代の「幕府」のような「権力」と同一視してしまうと、「権力者の過ちは、見るな、隠蔽せよ」みたいに聞こえてしまう。
でも、権威は権力とは違うと思う。
権威とは、権力や決定権を行使しようとしたとき、それを周囲が認めざるを得ないようなお墨付きを与えるようなもの、と思われる。
中世の日本において、いくら軍事力や資金力に長けた勢力であっても、天皇のお墨付きがなければ他の豪族や大名の合意形成を達成するためにはものすごく大きなコストをかけなければいけない、みたいな感じで。
権威を軽視する、または権威の過ちを拡散することで権威が失墜するのを助長するということは、合意形成コストを格段に高める可能性があるんだろうな、と思う。
権威が権威たる根拠に疑義があるならそれを看過してはいけないかも知れないけど、それは何のため?という視点なしに、「過ちは訴追すべし」という考えは、組織運営を考えると害悪が多いな、と思う。
ぼくは最近強く思うのです。
合意形成って難しいけど、時間書けるべきはそこだよな、と。
合意形成って、全員賛成っていう状態を作ることじゃなくて、最終的には「まぁ、しゃあないな」でとりあえずその方向で進めましょう、っていう結論でしかないかもしれない。
時間をかけても100%「合意」状態にはならないことの方が多くても、時間をかけて「まぁ、しゃあない」を作ることが重要なんだな、と。
だから、権威という存在に対しては、したたかに「どう利用しようか?」という視点で捉えるべきだな、と。
そんなことを感じていた矢先、参加した礼拝で創世記のこの話を牧師さんの説教を介して知る機会に恵まれ、すごいタイムリーだし「あれ?聖書ってビジネス書だったの?」みたいにびっくりした次第。
聖書の至るところにビジネス書的な要素がある、っていうわけじゃないし、そういう読み方を勧める気もないし、ぼくもそういう読み方をしているわけではないけど、少なくともそういう気付きをもたらしてくれる話がたくさん聞けるので、礼拝にはせっせと参加したいと思う今日このごろ。
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