やっと『回遊』第三号が発行できた。お待たせした皆さま、お待ちくださってありがとうございました。 そう、なぜか『回遊』を待っている人がいて、不思議だ。奇特な人だ。 それになぜか『回遊』を買う人がいて、不思議だ。稀有な人だ。 届いてすぐに、ひとまず善行堂さんに持って行ったのだけれど、数日後に「完売したから追加で持ってきて」と言われ、「誰があんなのを好んで買ったんだろう」と思ってしまった。追加で入荷すると、また数日後「完売したから追加して」と連絡がきた。信じられない。寄稿者か
怒涛の一週間だった。怒涛、怒涛、どとう。 『回遊』第三号が到着して、編集長にも神戸からわざわざ京都まで来てもらって開封式をした。 落丁等データミスはなく、無事に紙に印刷されて届いてくれて本当に良かった。 実はかなりでかいミスがあるのだが、おそらく気付く人はそうおらず、編集部員も気付かないだろうから黙っておく。創刊号、第二号を持っている人なら、並べて読んだ時に、あれっと思うかもしれない。完全にデザイン面のミスなので、全て私に責任がある。 以前大学で同窓会的なものがあった際に
今日はお仕事が休みで、特に何も予定がなかった。 ここ最近ずっと遊んでくれている人は東京に行っていて、家主は仕事で、他の友達も栃木にいたりパリにいたりして、ひとりぼっちである。 昨日はなんだかんだと3時くらいまで起きてしまっていた。京都に来てからはあんまり夜更かししなくなったから、かなり珍しい。京都のまちは日が出ているうちのほうが楽しいので、朝早起きできるようになったぶん、夜はさっさと寝てしまう。 久々な夜更かし、朝寝坊どんとこい、アラームをかけずにぐっすり眠った。途中で家主
よく知らないところでよく知らない人に、「やや美人」という悪口なのか誉め言葉なのかよくわからない評価を受けていた。 いつまで容姿のことを人から勝手に評価されたり貶されたりしなければならないんだろうな~、という気持ちと、それでもやっぱり私だって自分勝手に物事を美しいだとか醜いだとか判断しているよな~という気持ちになる。 人から容姿をジャッジされるのって、なんだか嫌だけれどもうどうしようもないというか、「見る」という行為が本当に単に「見る」であり続けることなんてあまりに非現実的で
Twitterのbio欄は、2024年4月から「元気いっぱいの無職」と記載していた。 それまでは確か、「M2 社会学」みたいな表記だったと思う。 修士課程を出たのでbio欄になんて書けばよいのかわからなくなり、まあひとまず「無職」だろう、と思ったのだが、それだけだと面白くない。 そう思って「元気いっぱいの無職」と書いてみたのだが、あまりに正しく、過不足のないこの情報は大変しっくり来た。 私も勿論そういうわけで「元気いっぱいの無職」という自称を気に入っていたのだが、思いのほ
京都での暮らしが始まった。今日で4日目。 昨晩三脚が届いたので早速家の中で撮ってみた。ヘッダー参照。 前々から欲しかったので色々探していたんだけれど、軽くてそこそこ高さのある良い感じの三脚が見つかった(しかも安い)! この縁側を活用したい。縁側がある家に訪れたこと、人生で初めてかもしれない。まさか私の部屋に縁側があるなんて。窓の外にはこじんまりとした、そして鬱蒼ともしたお庭がある。誰にも手入れされていないのに綺麗なあじさいが咲いていて面白い。 かろうじてニトリで購入して
京都で居候を始めることにした。 もう引っ越しもほとんど終えて、ひとまず居候先での生活に支障はない。 私は地元を一生離れられないのかもしれない、とたまに思ったりしていたけれど、外に暮らしの拠点を移すことは、案外簡単だった。 でも、持ち物があまりに多くて、やっぱり移動は難しい。私は旅行が嫌いなのだけれど、これはつまり「移動が嫌い」なのである。 関西には「新快速」という本当にスペシャルな交通機関がある。近畿中部を横断するこの電車は、駅という駅をかっ飛ばし、あっという間にものす
大学に通っていたころ、私は家が遠いため、毎日毎日、電車に1時間以上乗っていた。 電車に乗っている時間は、読書の時間だった。家が遠いことを悪いことだと思いたくなかったから、電車に揺られる時間を少しでも有意義なものにしたかった。 院生のころはともかく、学部生の時はそれなりにイマドキな女子大生だった(になりたかった)ので、インテリのみなさんには怒られるかもしれないが、信じられないほど小さなバッグで通っていた。 教科書なんて持ってなかった。印刷したレジュメを丁寧に折りたたんで、それ
昨日は大学に行った。 なんと、授業をしました! びっくりだよな、なんで無職が大学で授業をするんだろう、でも私が一番驚いている。 TAとかで教室の前でみんなに喋ったり、演習発表とか、そういうのは経験あるけれど、ちゃんと「講師」という名目付きで話すのは本当に初めてだった。 大学教員のみなさんがTwitterなんかで「学生が私を見てくれない」だとか「スマホ触ってるの気になる」だとか「前のほうの席に誰も座ってくれない」だとか言っているのを、私はただ「ほーん」としか思っていなかっ
人によっては、ちょっと会うのが久しぶりだからとよそよそしい態度を示してくる友人がいる。信じられない。 中学生の時、高校生の時、あれほど毎日のように一緒に同じ空間で同じ時間を過ごして、たくさんのことをお喋りして、なのにちょっと数年会わなかったからと、あの時の記憶が全部すっぽ抜けたのかというほどの「他人感」。 そんなわけないでしょう、と思う。私は全部覚えている。 過去のどの部分にあっても、平等にそれらは大切な時間で、大切な物事だから、いつだって私たちは友人であると信じている。
2019年、『三体』が日本で発売された。劉慈欣さんによるこの中華SF小説は翻訳の発売前から相当の話題性を持っていて、SFオタクの私は発売を心待ちにしていた。 発売日から数日遅れて『三体』を購入し、買ったその日に読み始め、買ったその日に読み終えた。衝撃だった。 本好きの人がそれほど多くない現代社会で、本が好きという話をすると、「一番面白かった本ってなんですか」といったことを聞かれる。誰だってそれぞれの分野で聞かれたことがあるだろうけれど、この質問はすごく難しい。 でも、『三
「無職って、一日何してるんですか?」 ここ1ヶ月、この質問を数えきれないほど受けてきた。 ひとまず「5時に寝て、14時に起きてます」と答える。 この3月に大学院を出て立派な無職となった私は毎日非常に楽しく過ごしていて、かけがえのないこの日々を心の底から大切に思っている。 無職にも向き不向きがあると思うが、確実に、私は無職に向いている。自信を持って言える。 とはいえ、この生活も着実に終わりが見えてきている。金銭的問題のみがその理由である。 人生のなかで最も素晴らしかったのは
大学っていいところだな、といつも思う。 大学院を修了してからも、何度か大学へ行く。 正門からすぐ近くに院生室があるので、友達にさらりと挨拶しにいく。大抵さらりとは済まなくて、楽しくなって長居してしまう。 それから院生室のある建物を出て、圧倒的な緑を放つ木々の間を歩く。 6年前、学部に入学して初めての授業の日、高校の頃の友人たちとクラスが離れてしまってひとりぼっちになった私は、広い教室を一瞬で見渡して、良い感じの――自分と同じ感じの――女の子たちが座っているあたりに腰を降ろ
なんだか京都に縁がある。最近急に。 そういうわけで、いろんな人と会う約束を合わせて京都に行った。 私はさも神戸にいるかのようにネット上で振る舞っているがこれは完全に嘘である。神戸からうんと離れた片田舎にいる。だから私にとって京都は遠い。 いい場所であることは勿論知っている。私は中学生のころ森見作品を読み、「大学」たる場所を妄想し心躍らせていた。 そううまく行くはずもなく、というか私は単純に頭が良くないので進学先を選ぶことはできず、加えて私の血に脈々と流れるマイルドヤンキー
本当のところは、生活なんてどうでもいいと思っている。 毎日何かを食べるとか、顔を洗うとか、風呂に入るとか、そういうことは全然したくない。 自分の信条や思想・思考のほうが自分の身体よりも、何百倍も重要だから、実を言うと生活なんて放っておいてしまいたい。 でも今の私は、身体がないままに思考することは不可能なので、身体を健康に、清潔に維持するために毎日毎日、来る日も来る日も「生活」している。 観念的な世界に生きようとしている友人がよく、メタバース上での生命維持を話す。固有の体な
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』考察ー甲南読書会vol.15 https://note.com/konan_biblio/n/n2883d276860e 書きました!