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美 醜 汚 穢 猥 雑

よく知らないところでよく知らない人に、「やや美人」という悪口なのか誉め言葉なのかよくわからない評価を受けていた。
いつまで容姿のことを人から勝手に評価されたり貶されたりしなければならないんだろうな~、という気持ちと、それでもやっぱり私だって自分勝手に物事を美しいだとか醜いだとか判断しているよな~という気持ちになる。

人から容姿をジャッジされるのって、なんだか嫌だけれどもうどうしようもないというか、「見る」という行為が本当に単に「見る」であり続けることなんてあまりに非現実的で、「見る」ということにはそこに「判断」「評価」みたいなものが内在してしまっている。本当に「見る」ということは「見る」ということだけで独立可能なんだろうか。「見る」ことにはもうそれ以上の意味が、その延長にではなく、内包されてしまっているんじゃないだろうか。

見てしまえば、そこから脳はすぐに発展を始めてしまう。
部屋の片隅に積まれた本たちの背表紙を見ていると、その本を買ったときの情景が思い起こされたり、本を読んだときに感じた事や、感想を友人に話したこと、関連する本のこと、なにもかもが次々に、とめどなく、脳のなかに洪水のように溢れかえる。
芸術作品を見る時、そのなにものかに圧倒されている時でさえ、脳はなにか別のことを思い起こしたりしていないだろうか。本当にその芸術作品を「見る」ということで完結された感動なのだろうか。

「見る」という行為に「判断」のようなものがセットなのであれば、容姿ジャッジされることは避けられない。
その「評価」を公にするのか心の中だけにするのか、という話は当然のことなのでもう深入りしない。

「きれいはきたない きたないはきれい」
未だによく分からない。私は散々シェイクスピアの演劇をやったり見たりしてきたのに、未だにシェイクスピアの言ってることがよくわからない。本当にみんなはわかってるんですか? なんだかさも当然のように「きれいはきたない きたないはきれい」と言ってはいるけれど、本当は全然なんのことだかサッパリ分かっていない。どういうこと?
不定期的にこのセリフは脳内を走るけれど、そのたびに私は「わからんなあ」と思っている。

私は孤独なSFオタクで、特にサイバーパンクを好んでいるのだけれど、サイバーパンクの魅力というのは、「清潔」と「汚穢」だと思っている。圧倒的な科学力、真っ白の空間、混じりけのない直線と曲線、清潔なテクノロジー。ゴミまみれの路地裏、賄賂、ドラッグ、ネオンに照らされる汚い街、汚穢に塗れた人間。「きれい」と「きたない」がハチャメチャになった猥雑さ。「きれい」と「きたない」は表裏一体で、切り離せない。「きれいはきたない きたないはきれい」ってこれ? 
『回遊』第四号は「汚穢」をひとつのテーマにしようと思っている。汚穢に感じる魅力は美しさと言い換え可能なのだろうか。ねばねば、べとべと、ぷるぷる、汚穢は時に美しく、美しいものは時に汚い。私は当然に美しいものが好きだし、それと同じくらい汚いものも好きだ。でもこれって結局美醜にこだわっていることと何が違うのだろう。美醜の概念を乗り越えようとしていたような気もするけれど、つまるところまた美醜の話に舞い戻るだけ。

容姿の話をするとき、度々思い出すエピソードがある。
学部一年生(18歳)の頃、キャンパスを友人らと歩いている時に、ちょうど真横を通った人たちが「なんでもええから、とにかく「かわいい」って言われたいよなぁ」と喋っていて、その声のあっさり加減とあまりの真剣味、そしてその(当時の私たちにとって)当然すぎる話の内容に共感と笑いが渦巻いて、結局大爆笑なんかではなくて、ただしみじみしてしまったのである。
誰かが「ほんまやで……」と呟き、三人でなんだかうつむいてとぼとぼ歩き、「ほんまはさ、枝みたいにカリカリになりたいわ」とまた私たちの誰かが呟いた。私はそれに「せやなぁ」とだけ答えた。

もう全く「枝みたいにカリカリになりたい」とかは全然思っていないけれど、その時の私が確かにそれに本心で共感していたことだけは思い出せる。

美の基準というのはいつの時代も明文化可能な形で表れている。目のパーツがどうで、バランスの黄金比がこうで、口元はこうあるべきである、といった風に、箇条書きにできてしまう。私はその箇条書きにされるほぼ全ての項目の「美」を持っていない。だから醜い。ということはないはずである。
箇条書きにされうるものだけが全ての「美」を規定しているわけではない。

前にnoteで、私は私の身体を愛している、みたいなことを書いたけれど、これは結局身体の中身ではなくて身体の輪郭の話である。
ただこの身体の輪郭というのは今後も変化していくことが当然に予想される。はたして私はその変化した身体を愛し続けることができるのだろうか、ということが最近の私のかなり大きな悩みである。
言ってしまえばつまり「老いた身体」を自分の身体として捉えられるのか、ということである。
多分身体はこれからどんどん可動域を失っていく。そのとき私は失った「かつては届いていた場所」をどういうふうに穴埋めしていくのだろうか。

身体の中身はやっぱり嫌いだ。
嘔吐している時、いつも「身体っておかしいよなあ」と泣きたくなる。こんな身体ならいらないよ、と思う。
最近はめっきり体調を崩さなくなったけれど、思い出せばその昔、中学生になったころに恐ろしいまでの頭痛に襲われる日々が続いたことがあった。本当に苦しくて苦しくて、意味もない嘔吐を繰り返して、眠ることもできないような頭痛に悩まされていた。頭の中に小人がいて、小人たちが大きな鐘を鳴らすかのように私の頭を内部から打ち付けている、そういう妄想で身を守っていた。
そういえばSFにハマったのもそのころだった。身体というものから解放されうる可能性を見事に示してくれたサイエンス・フィクションが私の精神の拠り所だった。身体から解放されれば、この異様な頭の痛みからも解放される。救いの道筋だったのかもしれない。

身体からの解放。身体から解放されれば、それは本当の自由だろうか。テクノロジーは既に身体に侵入している。私たちの身体や感覚や思考はメディアによって商品化されている。身体からの解放は、実際のところは解放なんかではなくて、身体が完全にテクノロジーに汚染されるのをただ待っているだけなのかもしれない。
それでも私は科学技術の進展をあっけらかんと期待したい。私はハイテクおばあちゃんになるのが夢。テクノロジーは、人間の可動域を拡げることができると信じている。上位者がさらに上位の可動域を掴むのもいいけれど、社会的弱者こそがテクノロジーの真の活用者だ。もっと世界が科学技術でいっぱいになってしまえばいいのにと思う。心身がどうであれ、誰しもが行きたい場所にすぐ行けて、楽しみたいことを楽しめるための科学技術が溢れたらいい。周りには「健常」とされる人間が多すぎる。「非健常者」は見えていないだけ。なぜなら社会に出て行くための手段を持つことが困難だから。

社会がもっと猥雑になってほしい。テクノロジーに支えられた多様な人間がもっとはびこったほうが社会は美しい。「美」の基準なんてクソ喰らえ、似たような顔かたち姿、二本の腕と足と胴体を持って、まっすぐ立って、同じような文面のメールを送り合って、にこやかに挨拶して、そんな人間ばかりで何が楽しい。奇声を発し、雄たけびをあげ、腕がなくても1本でも3本でも、車いすも義足も補聴器もハーネスをつけた子どもも、いくらでも溢れているような社会のほうがよっぽど楽しい。
「誰一人取り残さない」っていうのは一部だけを選び取っているからそんなことが言えるだけで、本当はハナから何者かだけを選び取ることなんて無しに、「取り残す」なんて状況そのものがないほうが良いはずだ。ただ「見る」だけで、本当はそれだけでいいのに。

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