カオスとコスモスを夢みて:七峰らいがのウルトラシリーズ遍歴
(ヘッダー画像は海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館より)
手前生国と発しまするはウルトラマンにござんす。ウルトラマンと申しても広うござんす
……なんて自分の「好き」のルーツを語れたらラクなのにと思うのだが、あいにく仁義の切り方など僕にはわからない。
僕はウルトラマンカードゲームの発売にタガが外れてしまって、遊ぶ仲間もいないのにYouTubeや現Xで連日情報集めを続けている。
要するに、今になってウルトラシリーズへの愛が全肯定される初めての体験をしたのだ。
2千円でお釣りが来る50枚2セットのデッキに光り輝くウルトラマンの世界が凝縮されているからだ。
どっちを向いてもウルトラマン、どこまで行ってもウルトラマン。
「君は相棒とともに戦いの海へ漕ぎ出すんだ。無限の想像力、ライバルへの敬意、逆境を乗りこえる勇気を持って」
その声に導かれるままに。
だからこそ、自分のウルトラシリーズ好きのルーツはどこなのか? を深く掘り下げて名刺代わりにしておく必要があると考えた。
僕の場合、それは記憶した放送話数や買ったオモチャの数では語れない。
悪名高きニコニコ動画でネットミームに触れてきた育ちの悪さもある。
それでも僕の心には、あるウルトラマンとつながった原風景がある。
地上から見上げる慈愛のヒーロー
2001年(平成13年)7月7日(土)18時の記憶を正確には覚えていない。
美化された印象的な記憶として、夏の夕陽がお茶の間に差し込む中、ちいさなブラウン管テレビで『ウルトラマンコスモス』を見た記憶と、その番組の中でコスモスがしゃがんで地上へ顔を向けるカットが頭の中に焼き付いている。
これはあくまでも当時の映像から感じ取った自分の主観イメージでしかないのだが、ウルトラマンというのはとにかく怪獣と互角以上に渡り合う格闘術の達人であり(コスモスルナモードの「攻撃を捌く」動きにもよる)、その力強さと優しさでみんなを守ってくれる存在なのだ……というのが第一印象だった。
だからこそ「何も守れてねぇ」『ウルトラマンメビウス』第1話には強いショックを受け、大人になるまで作品を受け入れられなかった。
まさに眼前で「見上げた」ウルトラマンからの刷り込みはそれほど強烈だったのだと思う。
他方、父親の車のカーステレオからは『最新決定盤! ウルトラマン全曲集2000』が延々と流れていた。
初代マンからガイアまでの全曲を謳いつつ帰マンとティガの主題歌は入っていなかったが。
もうディスクはキズだらけになってしまっているけれども、この曲順もまた、僕の精神的なルーツとも言えるプレイリストだ。
Beat On Dream On
Lovin' You Lovin' Me
ウルトラマンダイナ
ULTRA HIGH
君だけを守りたい
Brave Love,TIGA
ウルトラマンパワード
ウルトラマンのうた
進め!ウルトラマン
ウルトラセブンのうた
ウルトラマンエース
タックのうた
ウルトラマンタロウ
ウルトラマンレオ
戦え!ウルトラマンレオ
MACのマーチ
星空のバラード
ウルトラマンネオス
ウルトラセブン21
ウルトラ六兄弟
ネットの海に均される
明確にインターネット上の意見に自分の意見が流されるようになった時期は『ウルトラマンネクサス』放映時と重なる。
5歳から独学で自宅のパソコンに触れていた僕は当然のように2ちゃんねるやニコニコ動画の文化圏に飛び込み、やりたい放題なんでもありの混沌としたネットミームに浸っていた。
今でこそWeb制作会社サイバーエデンが企画したコンテンツと理解しているが、「円谷エイプリルフール」といえばアイレムソフトウェアエンジニアリングのそれに次いで大きなネット上の催しで、まさにネットミームそのものの好き放題な世界に毎年笑わせてもらい、それを「いいこと」だと無批判に享受していた。
現代はそんなことまでしなくとも個々の持つキャラクターに根ざしたファンサービスが人気を集めているが、TBS系列局での放送終了からウルトラマンゼロ登場〜ニュージェネウルトラマン始動までの不安定な時代は、ウルトラマンから僕の心が一旦離れた時期だった。
そこには「今のウルトラマンは自分より下の子供たちのもの」という意識も少なからずあったと思う。
2016年、無職の空白期間を嫌いつつなんの目標もないまま倉吉の人材育成センターに通っていた頃、コンビニの新聞で『ウルトラマンオーブ』の予告記事を買って読んだ時、無性にワクワクしたのを覚えている。
新しいウルトラマンが始まるというだけで、なぜあんなにもワクワクするのだろう?
もうテレビではウルトラマンが見られないかもしれない、という時代を乗り越えたからというのも一理あるかもしれないが……その時から、僕は結局ウルトラマンのことが好きなのだということを受け入れるようになった。
本編も、面白かった。
僕はクレナイ・ガイという主人公の飄々とした背中に隠された苛酷な運命と、それが報われるドラマに興奮した。
昔気質で、義理人情に厚く、先輩のウルトラマンに折り目正しく挨拶するところがユニークで、あこがれた。
『オーブ』のメイン監督である田口清隆監督は、僕の地元である鳥取県米子市から始まった「全国自主怪獣映画選手権」つながりで注目してきた人物である。
氏の描く「大人」とその周囲の世界が好きだ。
皆に使命感があり、生まれてから今日までの積み重ねがある。いいこともあれば心残りもある。
折り目正しく変身アイテムを振りかざす。防衛チームは実銃に近い武装を抱え自衛隊と似た符丁でウルトラ怪獣と勝負をする。人間社会に当たり前に宇宙人がいる光景が民放テレビの警察密着取材と同じ距離感で撮影される……現実とフィクションの混淆が豊かだ。
それは、ともすればウルトラマンやウルトラ怪獣の神秘性を剥ぎ取ってしまう演出でもあるのだが……個人的には「どこか憎めない」と受け入れる格好に落ち着く。
「こういうひと、いるよね」「こういうこと、あるよね」という納得感がそこにあるからなのかもしれない。
ウルトラマンのようには生きることができない
2022年7月、僕は新型コロナの陽性者となり、ホテル療養によって回復してきた頃に一本の短編小説を書き上げた。
寝ていてもヒマだったからスマホで手遊びしたとも言えるのだが、それ以上に地上から離れたホテルの一室から一歩も出ないというのが、この疫病のもたらす「分断」の一側面に感じられ、とにかく何か自己発信しなければ不安でしょうがなかったからだ。
折しも『ウルトラマンZ』や『シン・ウルトラマン』を見終わった後だったので、両作品の影響下にあるのと途中から自分の「ウルトラマンごっこ」に収まりがつかなくなって単なる初代マンのパロディ二次創作になって終わるのだが、「異世界ファンタジー路線のウルトラマン(か巨大ヒーローもの)があってもいいのにな」とは今でも思っている。
この作品には自分の趣味を入れ込みすぎて一般的にわかりにくい内容になっているが、主人公の一人である女神イドに村をひとつ滅ぼす過失を背負わせた理由について振り返るとこういうことが言える。
僕はウルトラマンのように強く・優しく・賢くはなれないし、ウルトラマンに守ってもらえる正義の味方ではないのではないか。
それなのにウルトラマンのような強大すぎる力を持てば、ほぼ絶対にその力を暴走させてしまうはずだ。
なにかどうしようもない過ちを犯し、その罪を背負いながら、それでも未来をよくしようと思って行動するのが自分の生きている間にできる行いなのではないか。
ウルトラマンだって完璧ではない、というのはシリーズの中で繰り返し語られてきたことのひとつでもあるが、幼い頃はただその絶対的強者としての姿にあこがれていた。
ウルトラマンは強くて正しいという偏見があるゆえに、「人間ウルトラマン」とも評される、仲間と切磋琢磨しトライ・アンド・エラーを繰り返しながらヒーローとしての資質を磨いてゆくヒーロー像がなかなか受け入れられない。
僕が『メビウス』第1話に幻滅したというのも、必要以上に過失を叩く「出る杭は打たれる」世の中の人間だから……とも言えるかもしれない。
そんな僕が安易にウルトラマンを模倣するのだから、そいつはただ自分の暴力を振るう……歴代シリーズでも必ず暴走してきた、ウルトラマンとしての資質と志を持たぬ「人造ウルトラマン」でしかなかった。
もっと言えば、僕の暴力性は鉄砲玉のように敵の真っ只中に突っ込んで一発ぶちかますことによってしか満足させられないのだから、かの「超兵器R1号」と性質はそう変わらない。これもやはり、歴代シリーズで待ったがかけられた人間の業のひとつだ。
「人間の知恵と勇気とやらは本当にわが身を破滅させるためにしか使えないのか?」「科学技術やそれを使う人間の意識が公害を抑制して今の日本があるように、際限のない暴力装置のインフレーションにおいてもただ『暴走するから製造を禁じよう』以外の選択肢があるのではないか?」というのはもっと真剣に考えるべきテーマだと僕も思うが、具体的な道筋は立っていない。
ただ、僕はウルトラマンのようには生きることができない……という意識を強くするのみだ。
カオスとコスモスを夢みて
僕の「ウルトラマン好き」のルーツと時代の流れを追ってきた。
幼少期の体験、インターネットで鵜呑みにしてきたデジタル情報の群れ、そして時代の流れにもまれて変化していくウルトラシリーズそのものに対してひとまずは「ありがとう」と言いたい。
ウルトラマンカードゲーム発売の興奮からこの記事を書き上げたが、結果的に自分が今までに培ってきたウルトラマン観を一本にまとめられてよかったと思う。
「変身」という一語とそれがもたらす興奮の作用を僕は東映特撮に頼ってきた部分もあるが、やはり今でも小さな杖状のものを振りかざして「変身」する行為には強い憧れを抱く(それ自体は『コスモス』からではなく、時代ごとにメディアを通して触れる機会のあった初代マンからの影響が強いように思う)。
締めのことばにふさわしいかわからないが、「あなたにとってウルトラマンとは?」を自問自答しよう。
それは母であり、父である。
大いなる存在に抱かれ、自分もまた成長し身を立ててゆかねばならないと覚悟したとき、ヒトは地球のゆりかごから脱し、真の意味で「地球人」になれるのかもしれない……そう思わせてくれるのがウルトラマンだ。
(了)