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パフォーマンスとしての優しさ.
気づかないうちに見返りを求めてしまっていることがあるよねという話。
小さい頃、家族で外食をするとお会計を払っていたのはほとんどお母さんだった。
お父さんはきちんと定職に就いていたが、一般的なサラリーマンの仕事よりも下積み?期間が長い職業だったので、お母さんよりもお金がなかったんだと思う。
でもお会計の事とかお金がない事を申し訳なさそうにしている顔は一度も見たことがなかった。
お父さんは、今となっては安定した収入が口座に入るようになったので、外食に行っても旅行でお土産を買う時も積極的に払うようになった。
経済的に自立したいという女性は最近増えているが、少なくとも僕のお母さんはかなり前からお父さんの収入に依存しない、自立系ガールだったと思う。
そう考えるととても母親が誇らしく思えたのと、同時に「父親は当時どんな気持ちで生活していたんだろう?」と気になってしまった。
見栄えの良い優しさ
幼少期の頃に見た父親の姿を考えると、僕が人に奢らないというスタンスが生まれつき身についていることは妙に納得がいく。誰に強制させられたわけではない。
そんな僕でも生きていきく中で、何度か人に奢った経験はあるし、奢りたいなと思ったシーンは当然ながらある。
最近、数年ぶりに人に奢ったことがあった。我ながら快挙である。
ただ普段しないことをしたからなのか、言葉に表せない複雑な感情が、帰りの電車内で湧き上がった。
自分の見栄を張ったことで、後々一人でモヤモヤする状態が続いて、久しぶりにけっこう大きめなため息をついた。
ご飯を行ったとしてもその後会うかわからないような人、長期的な関係が見込めない人にお金を落とすのはあまりにもお人好しすぎるし、何より自分自身が納得いかなかった。
きっとよく見られたいという衝動と損をしたくないという心理のぶつかり合いが自身の中で起きていたんだと思う。
それと同時に、心の中でどこか見返りを求めてしまう自分が存在していることに気づき、さらに嫌になった。
もちろん、
電車で席を譲ったり、友達と旅行へ行く時にプランを率先して立てたり、おすすめのお店をピックアップして予約まで完結させるような、見返りを求めない無償の優しさみたいなものは持っていると思うし、これからも常に持っていたいと思う。
自分の性格を知っているからこそ、やらない事と決めたことを貫くことはとても大事。
ただ人間の価値観というものは、ある時から急に変わったりするので、来年とかにはドヤ顔で
「お会計お願いします」とカードを差し出しているかもしれない。
ただ現時点では見栄えを気にした、「パフォーマンスとしての優しさ」はしばらく控えたいと思った。そんな話。