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たしかにそうかもと思った話

皆さんこんばんは、nanaです。

今回は、先日とあるきっかけで自分の中で議論されることになった事柄について話していきたいと思います。

未だに画面越しに人を見ることに抵抗がある私は、その日もいつものようにアニメを観ていました。
【すべてがFになる】という作品です。
見終えた後に解説や考察を調べていたら、ドラマ化もされているようだったので、割と知名度のある作品なのかもしれません。

ジャンル的にはホラーサスペンス?推理物?だと思います。登場人物の中に世間から天才と認められている人が居たり、人間性や思考が掴みづらい人が多い印象です。トリックには科学や数学、AIやプログラム等が欠かせないので、一度見ただけでは謎が謎のまま終わるというか、私は推理を聞いても頭にハテナが残りました。ちなみにその後、ネットで解説や考察を見てもなんとなくしかわかりませんでした😀

内容はさておき、私が気になったのは作品に出てきた登場人物たちの言葉です。

まず、ある人は、「自然を見て綺麗だと思うのは、日々の生活が綺麗ではない、汚いということの証拠だ」というような事を話しています。

人によって綺麗と思うものは違うと思いますが、確かに旅行に行って、普段と違う景色、日常とは違う世界を見ると、自然と綺麗だと思います。なんだか空気が澄んでいるような気すらします。
でもこれは非日常感があるからこその感情であり、その地に住んでいる人にとっては当たり前の景色なんですよね。
慣れというやつですね。
学校でも会社でも、最初は緊張して場所や人や物に違和感がありますが、大概時間が経てばいつのまにか馴染んでいくものです。
1年生が2年生、3年生へと進級した時、入学時は知らなかった教室の位置を把握できているはずです。引っ越した時段ボールだらけだった部屋は、段々と物の配置が決まり、自分の部屋として形を成しているはずです。
だから日常を綺麗だと感じることはない。というか綺麗とか汚いとか考えてすらいないと思う。それはその人の当たり前になっているから。

このセリフを聞いて、ああそういう考え方もあるんだな、と思いました。
私的には日常が汚いという考えは行き過ぎに感じました。とは言え、自然を見れば綺麗だと思うことは事実あります。
日常は綺麗ではないかもしれない。でもそこには、慣れ親しんだ風景や人の顔、空気感があるはずです。
それらを踏まえると綺麗とまでは行かずとも、日常もそれなりの輝きを持っているのでは無いでしょうか?でもその輝きは時間が経てば経つほど無くなっていき、埃を被り、次第に忘れ、目に止まらなくなる。

まとまりがない文ですみません。
でもなんか、友達や家族で行った旅行先の景色や、有名な絶景スポット。そういうものを見た時に、すごく綺麗だな、素敵だな、と思うこと=日常は汚い、価値がない、みたいになるのは少し寂しいし悲しいなと思ったんです。
それはそれ、これはこれ、というか。デザートは別腹、というか。そんな感じです(まとめられない)



次に、ある登場人物は「死んでいることが正常で、生きていることこそが異常である」「自分の意志で生まれる生命はない」と言うような事を言っています。

最初これらのセリフを聞いた時は、なにを言っているんだろうと思いました。でも、その結論に至る過程というか説明を聞くと、なるほどね?と思えてきてしまうんです。不思議ですね。この先は先ほど挙げた2つのセリフを前者を①、後者を②として話していきます。

①について

理由の一つに睡眠についてがありました。眠ることの心地の良さ。眠る=意識をなくす、という行為を体が求めている。そしてその眠りを妨げられ、人に起こされたりすると不快に感じたりする。
つまりそれは意識のない状態を体が本能的に正常だと判断している=死んでいることが正常
というような理論になるわけですね。
私の説明が下手すぎて、上手く伝わっているわかりませんが、そういうことです。


病気を患う前、私は寝るのが大好きでした。休日は寝る。暇があれば寝る。睡眠が趣味と言える程、寝るの大好き人間でした。
そして朝の目覚ましのアラームの不快さ。すごくわかります。うるさい。ああもう朝か。もっと寝てたい。学校、会社、行くのめんどくさい。何百回、何千回とそんな事を思っては、眠い目を擦り、体を無理矢理起こし、という普通の生活をしていました。
私は違うと思っていますが、寝起きが悪い人がいるのも事実ですよね。
睡眠は脳が情報を整理する為とか、シンプルに体に休息を与える為とか、いろんな理由があるんだと思います。なので眠ること=死んでいるのが正常というのは多少強引な考えかなと私は感じました。でも言っていることはわかるし、一理あるかもしれないとも思いました。


②について

そして後者のセリフ。
「自分の意志で生まれる生命はない」
これです、これ。
私が1番たしかに、と思った言葉。

私と言う人間も私の意志で生まれてきたわけではありません。誰の意志かと言われたら、両親でしょう。子供を作りたい、そう望み、行動をしたからこそ生まれてきたんです。そこに私の意志なんてものは入り込む余地すらありません。

アニメや漫画、ドラマや小説などで反抗期の子供が両親に歯向かったり、喧嘩になったりするシーンってありますよね?そこで、子供が親に向かって「私は望んで生まれてきた訳じゃない」的な事を言って、「親に向かってなんてこと言うの」的な言葉とセットで平手打ちをくらう、みたいな流れ、見たことありませんか?いつどこで見たのかはわかりませんが、私は容易く想像できます。よくある子供と親との喧嘩。

そこで先程のセリフ。自分の意志で生まれる生命はない、と言う言葉を思い出して下さい。
そうすると、子供の言い分は真っ当なのではないか?と思いませんか?子供にはそれを言う権利があるのではないか、と私は思います。

確かに、子供を産むに至って両親が費やした時間やお金、覚悟や努力、育児という重労働、子供に注いできた愛情、思い出、などなど。親というものは必ず苦労をしているはずです。子供には計り知れないほどの苦労を。
それはわかります。わかっているつもりです。

ですが、元を辿れば、子供を産み育てようと決めたのは両親であり、両親の意志によって子供は生まれてくるのです。

よって、私は反抗期であろうとなかろうと、親は子供に、"望んで生まれてきたわけではない"という類の言葉を言われる覚悟を持つべきなのではないかと考えるのです。それが子供の当然の権利というか、当たり前に感じます。

とはいえ、それを面と向かって親に言うかどうかはその人次第だし、私は世の中の親に傷付けと言っているわけではありません。
子供が生きていく中で、いつか、なんで生きているんだろう、なんの為に生まれてきたんだろう、望んで生まれてきたわけじゃないのに、こういった漠然とした疑問や不満、不安が生まれる可能性が大いにあるということを知っておいた方が良いのではないかと思うのです。

どれだけ愛していようと、我が子にナイフを向けられる可能性があるということです。

そしてその時の親の対応がとてもとても重要なのではないかと考えるのです。

私自身、今"なんで生きているんだろう"と思っています。学生の頃にも、"なんで産まれてきたんだろう、私なんていなきゃよかったのに"と思ったこともあります。
ですが、それを両親に言ったことはないし、この先も言うことはないと思います。それはやはり両親への感謝や愛情、両親の苦労や努力を考えると、いろんな感情が働くからです。自分を産んで育ててくれた人に言える訳がない。産まれた時どれだけの人が誕生を喜んでくれたか、そんな事を考えるともっと言えなくなります。

でも口に出していないだけで、心にはそんな言葉たちが存在しているんです。"なんで生きてるの?なんのために産まれたの?望んで生まれてきたわけじゃないのに。なんでこんな辛い思いをしないといけないの?生まれてこなきゃよかった。"
そんな言葉たちが。


すべてがFになるという作品をきっかけに、そんなことを自問自答し続けて、本当に色々と考えさせられました。きっと何が正解とか間違っているとか、答えはないんだと思います。色んな考え方があるし、立場や状況が違えば違うだけの選択肢があるんだと思います。

四六時中考えていたわけではないんですが、どこか頭の片隅にはもやもやがあり、GWに甥っ子や姪っ子が来た時、友達の子供を抱っこした時、なんとも言えない気持ちになりました。(友達の子供めちゃかわでしたマジで)

でもやはり、身内や友達に子供が産まれたら私は喜びますし、嬉しいです。よかったね、おめでとう。そう言います。

でもいつかその子が大きくなって、例に挙げたような言葉がその子の心に生まれたら…両親と喧嘩になったら…

そんな事を思うと、部外者とはいえ、誕生を祝う、新たな生を喜ぶ、という行為が、無責任なのではないかとすら思えてきます。親子の問題には子供が産まれた時点で部外者が介入できる問題ではなくなります。きっと親子の問題は親子で解決していくしかないのです。
そう考えると、いずれ訪れるかもしれない喧嘩や言い争いを、部外者ではどうにもできないというもどかしさを感じます。あと、祝うだけ祝っておいて、問題が起こったら家族でどうにかするべきだという、なんとも傲慢な考えを押し付けざるを得ない罪悪感。私は関係ないよと責任逃れするような醜さ。

トータルで自分が物凄く卑怯で無責任な奴に思えてなりません。

なんなんですかね。難しい問題ですよね。家族とか親子とか。人間って複雑です。

長々と書きましたが、私は未婚だし、今精神疾患を患っているし、基本ネガティブで、考えすぎな人間なので、思考が偏っていたりしているかもしれません。

というか変な想像ばっかりしてないで、まず自分の問題をどうにかしろよって話ですよね。うん。ほんとそう思います。

でもなんというか、自分自身のことを考えるときより、創作物を見て感じたり考えたりすることは、私にとって大切なんじゃないかなと最近思います。なんとなくですが。創作物だと読み手の私は完全に第三者で、俯瞰で物事を捉えることができますからね。まあだからこそ、Aの気持ち、Bの気持ち、Cの気持ち…と人の数だけ思いを巡らすことになるので、良いのか悪いのかわかりませんが💭


今回は、私がたしかにそうかもと思ったことを話させていただきました。長文になってしまい申し訳ないです。目疲れましたよね。すみません。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます🌱


皆さんはどう思われましたか?



nana🧸


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