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シスターフッドと女性間での性暴力
AFAB(Assigned Female at Birth)であり、戸籍上も性自認も女性でありながら、私の心には「自分は必死に女性を演じている」という奇妙で不快な感覚が居座っている。
異性愛男性から見た性対象(オンナ)であることは容易に(ただし望むと望まざるとにかかわらず)できても、他の女性たちから見た仲間(女子)であることはひどく困難に思える。
年上の女性と部屋で二人きりになったときに浮かぶ「彼女は私を性的に傷つけるかもしれない」という強迫的な考えはきっと"ふつう"ならわいてこないものだろうということや、物理的に近づいてくる同性に対してひやひやしている様子に気づかれてはいないかという不安が、生活につきまとう。
「女に怯えるお前は女ではない!」といつ言われてしまうかわからない不安から、かえってスキンシップ過剰になるなど、自身が加害者になるリスクとも向き合わなければならない。
「女同士だから安全だ」という多くの女性が持っている信念は、誤っているけれども彼女たちが心の平和を保つためには役立っているようだ。実際この信念は私も人生のある時期まではもっていて、それに助けられてきた場面も少なくない。しかしだからこそ、その信念が崩壊したときには大変な混乱を経験するはめになったのだった。
母親からの性暴力を経験した女性サバイバーたちによるオンライン上での議論をみると、彼女たちのフェミニズムとの向き合い方には特異な点があるのがわかる。それは「女性によって性的に裏切られる場合がある」という前提を共有しているということだ。当然といえば当然なのだが、この前提をもっているがゆえに、彼女たちの(私たちの)多くが、その視点をもたないフェミニストからの嘲笑や非難、フェミニストコミュニティからの排除を経験している。そこからアンチフェミニズムに傾倒する人、女性間の性暴力をサバイブした女性にとって安全な運動のあり方を考えようとする人などさまざまだが、いずれにしても「女性=安全」という神話がサバイバーたちを追い詰める。
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