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【三国志の話】三国志大文化祭2024

 今年もリアル開催のみでした。
 開会前のBGMは「パリピ孔明」のものが多かったが、あれはサウンドトラックだったのかな・・・?


「我が町神戸新長田、商店街三国志と横山光輝」

藤本晃代さん(「Cha-n gokushi店長」)

 横山光輝生誕90周年にちなんで、満を持しての登壇です!

 近年「鉄人と三国志の街」として知られる新長田で、カフェ「Cha-n gokushi」を開いておられます。

 筆者も昨年夏に訪問しました。その旅行記も合わせてご参照ください。

 ここから、お話をメモったものを要約していきます。

神戸鉄人PROJECT

 長田地区は神戸の副都心として発展しましたが、阪神淡路大震災で83%が全半壊という、とても大きな被害を受けます。
 藤本さんも、自宅は倒壊を免れたものの、避難生活を余儀なくされました。

 復興を合言葉に、2006年神戸鉄人PROJECTが発足。
 鉄人28号の原寸大のモニュメントを、1億3500万円の寄付を集めて建設、2009年9月に完成します。

 そして、駅南側の商店街(六間道)にも観光客を誘導したいとして、三国志に白羽の矢が立ちました。

 「KOBE鉄人三国志ギャラリー」は、私の旅行記でもメインとした場所です。

 商店街のあちこちに、造形作家馬淵洋さん作の石像や、別の作家さんの手による銅像があります。
 筆者は、周瑜・孫権・関羽の石像と、呂布の銅像を見ました。

 魏武帝廟三国志館にも、いろいろな展示物があるとのこと。

 2007年に、三国志なごみサロンがオープン。その飲食コーナーとして、藤本さんの「Cha-ngokushi」があります。

メインは茶ということで、Chaとnの間にハイフンがある。

 2007年7月からは三国志祭が始まり、今年は11月2日に開催予定。
 台湾の人形劇(毎年新作が発表される)とか、このあと登壇予定の竹内先生のクイズ大会などがあるということです。

 2013年の三国志祭には、諸葛孔明49代目と50代目の子孫が来日され、藤本さんは返礼で中国の諸葛村を訪問したということです!

横山光輝と長田とのつながり

 藤本さんは、横山光輝先生と地元長田区との関係がどれほどであったのか、気になって(半分疑って?)調べたとのこと。

神戸市須磨区出身、東須磨小学校、私立須磨高校、
1955年マンガ家デビュー、翌年鉄人28号が大ヒット。

前半生の略歴(藤本氏調べ)

 学校は全てお隣の須磨区。居住地も須磨区だったが、長田区と接した隣町であった。
 ここまでは、かすってはいるが縁は薄いと言えるでしょう。

 ただし、当時長田区には劇場や映画館が多く、横山少年もたびたび行って楽しんでいたようです。
 また、自叙伝マンガ「まんが浪人」では、青年時代に勤めた映画興行会社が六間道に映画館を持っていたと、本人が語っています。
 さらに、兵庫県広報誌への横山先生本人の寄稿文で、少年時代に駒ヶ林の海に沈没した貨物船まで泳いで遊んでいたと回想しています。

 横山先生と長田とのつながりが、かなり見えてきました。
 ここから、エンジンがかかった藤本さんのトークは止まりません!

 番長マンガ「あばれ天童」は、三国志の連載開始直後の1974-1975年に連載された作品で、三国志によく似ているのだそうです。
 例えば主人公「山城天童」は劉備、ライバル「柚木勝彦」は曹操に瓜二つです。
 そして彼らの対決シーンとなる高取山は、須磨区と長田区にまたがる実在の山と同名で、長田区民にはなじみ深いものだそうです。

 さらに、SFマンガ「マーズ」に登場するキャラクターの造形が神戸デパートの特徴を再現しているとか、「鉄人28号」で正太郎を襲うアカエイは長田区にある神社の御神体であるなど、珍説(?)が続々と出てきました。

 それらの真偽はともかく、個人的には、まず長田区が横山光輝推しで大成功を収めて、いずれ須磨区でも何かやってくれると面白いと思います!(え、須磨は紫式部?)

質問コーナー

Q. 名物の八宝茶が飲みたいが、ネット通販で買えますか?
A. 買えます。

Q. (筆者)ジョークの効いた面白い名前のメニューが多いので、商標を取った方がいいと思います。その中で一番人気のメニューは何ですか?
A. 飲み物では「張遼の遼来来」、食べ物では「龐統ほうとうのほうとう」。

龐統のほうとう

Q. 推しメニューと、推し武将は?
A. メニューでは三国志八宝茶、武将では関羽(三国志初恋?)

Q. お店がきっかけで三国志が好きになった人はいますか?
A. (藤本さんの)叔母さん。三国志のことを何も知らなかったが、川本喜八郎先生の人形を見て好きになった。東京渋谷ヒカリエの川本人形ギャラリーに行ったり、久保天随訳の三国志演義が読みたいと言ったりして、ハマりっぷりに驚いた。

「三国志地図で遊ぶ:オンライン公開までの道程」

竹内真彦(龍谷大学教授)

 竹内先生が、「伏龍鳳雛」と書かれたTシャツと、頭にバンダナを巻いた軽装で登場します。
 (司会のうしすけ氏に「黄巾?」とイジられていました!)

 学会では持ち時間が30分とかもっと短いこともあるが、大文化祭では1時間しゃべれるので楽しみとのこと。

 ここから、お話をメモったものを要約していきます。

地図の重要性

 歴史叙述について、当時の環境を把握するための基礎的なツールが地図。

 例えば、吉川三国志では、反董卓連合が南軍で董卓が北軍と書いてある。
 これに違和感を感じる人は、地図が頭に入っている。董卓(長安)は西で、連合軍は東だから。
 ただしこれは、吉川英治が間違えたというよりも、意図的であろう。
 昭和初期の日本人には三国志の予備知識が少ないので、南北朝時代になぞらえて忠臣=南朝と例えるのが分かりやすかったのではないか。

 紙媒体として渡邉先生の「地図でスッと頭に入る三国志」がすでにあるので、ネットで見られるものを目指している。

すばらしいが、河がないのは残念。

きっちりしていて、更新もされている。

東洋文庫 水経注図データベース

 水経注図すいけいちゅうずは、六朝時代に成立した古い地図。当時のままであることが貴重で、現代の価値観で正しいかどうかは気にしない(!)

 地名がテキストで埋め込まれていて、検索ができる。
 例えば「鄧艾とうがい」で検索すると、各地の鄧艾廟や祠が5個も出てくる。

地図を見ると理解がしやすくなる例

 『演義』の祁山きざんは漢中のすぐ上にある想定だが、本物は天水の南にある。
 なぜ(=諸葛亮は長安と逆方向に行った)か?

関連地図(東光書店「後漢華北図」をベースに筆者作成)

 魏延が主張した「子午道を通って長安を攻める」案は、作戦としては優れている。
 最短距離で長安を攻められるから、防衛態勢が整っていないうちに奇襲すれば、攻略しやすい。

 しかしそれは、「魏が蜀の何倍も強大である」という現実を見落としている。
 長安を取っても維持できないと意味がないし、別ルートで漢中を攻められたらもっとまずい
 だから諸葛亮の戦略は「魏と蜀の国力差を埋めるために、雍州の西部を魏から切り離すこと」であり、そのための祁山進出だった。

 これらを理解すると、諸葛亮のルートよりもさらに大回りをして、それを実行できた、鄧艾のすごさが分かる。(上記の地図の点線)

 (筆者)史実の祁山・街亭は、太平洋戦争に例えれば「米豪を遮断するためのラバウル・ガダルカナルだった」わけですね。
 『演義』の想定読者には戦略は理解しにくくて、戦術(とか作戦)であれば理解しやすいという事情もあったのではなかろうか。
 だから『演義』の祁山は長安に近くて、さらには魏延謀反の伏線として、諸葛亮が頑固に陳倉だ五丈原だと同じようなところに出ていく、その延長線上にあったのではないでしょうか。

(2024.10.10追記)明治の詩人土井晩翠の有名な詩「星落秋風五丈原」に、こういう一節があることを知りました。

祁山悲秋の風更けて
陣雲暗し五丈原

「星落秋風五丈原」土井晩翠

 これなど、まさに「祁山の麓に五丈原がある」という『演義』の誤解から来ていると思います。

地図を見るとかえって理解しにくい例

 『三国志演義』は、多くの創作物を切り貼りしたため、整合性が取れていない話が多い。
 地図を見るとかえって理解しにくいのは、そのような不整合のせい。

  • 千里独行

 関羽は許から鄴まで直進せず、なぜか洛陽に立ち寄る。
 『三国志平話』では長安から出発して洛陽経由で鄴に行く話だったのを、『演義』が許から出発したことにしたのでおかしくなった。

  • 呂伯奢殺し

 『演義』では、曹操は董卓の暗殺に失敗して、洛陽から東に逃げる。
 洛陽からまず中牟ちゅうぼう陳宮と出会い、次に成皋せいこうで呂伯奢を殺す。
 実際は成皋は洛陽のすぐ隣で、中牟のほうが東にあるので、わざわざ戻るのはおかしい。

 どちらも武帝紀の注にある話だが、『演義』が時系列に落とし込むときに間違いを犯している。
 (筆者)陳宮が目撃者になることで、のちの裏切りの伏線になって面白いとは思います。

  • その他

 州郡の名前を持つ地名はその州郡の治所がある県城を指すが、それでは重複が生じる場面が多々ある。

どんな地図が欲しいか?

 どの時代を対象にするかは難しい。
 秦時代では36郡で、前漢では103郡と激増するが、後漢では一旦減らして93郡、『後漢書郡国志』(順帝時代)では105郡と、かなり変動がある。

 その後も魏は、頻繁に郡県を整理したり州の範囲を変更したりしている。
 「明帝紀」には237年に襄陽郡を分けて義陽郡にしたと書いてある。
(筆者)南陽郡の一部と襄陽郡の一部で義陽郡になったようです。

 鄧艾(棘陽県)、鄧芝(新野県)などは義陽郡出身と書いてあるが、本来は南陽郡だった。
 陳寿が書いた時点では義陽郡だったが、出身県が分からない魏延も含めて、実は彼らは南陽郡生まれだったのではないか?

 正史の地名が全て入ってほしい。JPEGでは文字も画像になってしまうので、PDFの方が文字検索ができてよい。

 いずれにせよ、演義ではダメなのはもちろん、正史だけでもダメで、いろんなものを総合しないと分からなくなる。
 正史を一次資料とした二次資料を作成したい。

地図から広がる可能性

 新規層の取り込みや、生存戦略のために貢献したい。
 映画などで一時的なブームになるだけでは、継続的に新規参入者を取り込めない。
 古い人も新しい人もともに楽しめるものは何か。

 例えば、南北ひっくり返した地図で、固有名詞を全てとりかえた、架空のコンテンツができないか?
 メジャーな書き手で、イラストもほしい。書き手の金銭的メリットを確保して、制作側の人数を集めたい。

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 吉川英治三国志の読み直しをしている。新聞と単行本の比較など。

 note(竹内真彦|note

質問コーナー

Q. 軍事的に三国志地図を読み解くコツは?
A. みんな専門家ではないので、想像で話している。創作ではなく一次資料から事実を抽出するという点では、柿沼先生に期待?
(筆者)戦略級のゲーム(コーエーとか、ホビージャパンの「英雄三国志」など)をオススメします。漢中から長安を攻めるリスクなどが体感できる。

Q. 『演義』では劉備は(公安から遠い)零陵から先に攻めていくが、なぜか?
A. 正史には四郡の順番は書いていない。『演義』では関羽と黄忠をクライマックスに持ってきたいので、長沙を最後にした。あとは、蜀の武将の存在感の順番で、零陵 -> 桂陽(趙雲) -> 武陵(張飛) -> 長沙(関羽)の順にしたのだろう。

講評

 最後は例年通り、柿沼先生の講評です。

 みなさんマニアックなのでコメントしにくいが、毎回面白い。

 Cha-ngokushiには、すごく行きたい、ぜひ行きたい。太平道と書いたオムライスや、「龐統のほうとう」は面白い。
 自分も最近中国に行って、雲南省を調査した。実在しないはずの関索の廟が大量にあった。

 竹内先生は『演義』の専門家だけあって、呂伯奢の考察は面白い。
 (柿沼先生自身は)三国時代の軍事的な考察はしている。食糧とか軍事費、給料など。
 地図に地名を落としこむのは難しいが、祁山ルートが3Dで見えたりするので面白い。
 河川が重要なのは確かで、諸葛亮や姜維の遠征は全て河沿いになる。司馬懿にもそれが読めるので、そこで戦闘が起きている。

感想

 今年も楽しめました!
 午前中でこの内容は、タイムパフォーマンス最高のイベントではないですか?

貴重なお時間を使ってお読みいただき、ありがとうございました。有意義な時間と感じて頂けたら嬉しいです。また別の記事を用意してお待ちしたいと思います。