【三国志の話】【倭人伝 前編】曹操は倭人を知っていたか?
日本語の特徴は「(良くも悪くも)曖昧である」ということで、タイトルの文章には、
Cao Cao knew the ancient Japanese people. (曹操は倭人を見知っていた=倭人に会ったことがある)
Cao Cao knew of the ancient Japanese people. (曹操は倭人のことを知っていた=倭人について聞いたことがある)
の、二つの意味があります。
この記事ではあえて一つに絞らず、両方の可能性について書いていきます。
魏志倭人伝
倭国が魏へ使者を送ったのは景初二(238)年、または三(239)年。
曹操は20年近く前に死去しており、孫の曹叡も景初三年正月に没している。
ということは、倭国の使者に会ったのが曹叡なのか曹芳なのかは確定できませんが、少なくとも曹操ではありません。
従って、「魏志倭人伝」のみを根拠にすれば、「曹操は倭人を知らない(=倭国の使者に会っていない)」ということになる。
三国志大文化祭2023
昨年の記事「三国志大文化祭2023」で、同イベントの登壇者の一人が語った内容について、筆者はこのように理解してメモをとっています。
これが本当であれば、曹嵩は、霊帝の治世である建寧元(168)年から中平6(189)年の間に倭人に会ったことになる。
曹操本人が倭人と会ったかどうかは不明ですが、曹嵩に倭人の話を聞いていてもおかしくありません。
しかし、この情報をどこまで信じてよいのか。後漢の高官(太尉)にもなった曹嵩のもとに外国人が会いに来たのなら、正史(後漢書含む)に書いていないのはおかしいのではないか。
と思って首をひねっていたところ、最近になって筆者は、この元ネタと思われる情報を見つけました。
魏墓倭人塼(?)
「邪馬台国の時代 黒岩重吾・大和岩雄著 大和書房」の中で、黒岩重吾氏が「卑弥呼と邪馬台国」という章に次のように書いています。
この七文字は「倭人時を以って盟することありや」と読んで「倭人がどこと同盟するのか」という意味である、とのことです。
つまり、「倭人は(後漢王朝の土台を揺るがしている)新興宗教の味方をするのだろうか」という懸念だということでしょうね。
(2024/6/8追記)
本書の出版は古い(1997年9月発行)ため、その後、沛郡曹氏の研究が進んでいました。
「曹操 三国志学会監修 山川出版社」での石井仁先生の文章によれば、曹胤は曹騰(曹操の祖父)の兄曹褒の子です。
曹褒は曹仁の祖父なので、曹胤は曹仁の叔父さんになります。
いずれにせよ、曹操から見て、父曹嵩と同世代の近い親族であることは確かです。
さらに黒岩氏の文章の引用を続けます。
会稽郡は、のちに港湾都市杭州ができるところなので、海上交易が盛んであったことは確かでしょう。
そこで黒岩氏は、「会稽太守だった曹胤が、交易に盛んに出入りしていた倭人の動向を気にしていた」ことを論拠として、「正史には書いていないが、倭の一般の民衆が、海を渡って中国の会稽あたりに行っていたというのがはっきりしてきた。」と述べています。
ちなみに、黒岩氏のそもそもの主張は「卑弥呼の鬼道は、中国南部から伝わった新興宗教(=初期道教)だった」という点であり、この件はその主張を補強する材料だということです。
まとめ
これらの文章からは、何が分かるでしょうか。
「曹操の父曹嵩と同世代の親族(曹胤)の墓から、倭人について書いてある煉瓦が出てきた」ということは事実。
同時に、曹胤は交易が盛んな会稽郡の太守をしていたので、そのときに倭人についての情報を集めていてもおかしくありません。
そうすると、黒岩氏が書く通り、曹操が曹胤から倭人のことを聞いていた可能性はそれなりにある。
ただし、曹操自身は会稽郡に行った記録はないので、倭人と会った可能性は低いでしょう。
(織田信長のもとにポルトガル人宣教師がアフリカ人を連れてきたように、曹操のもとに誰かが倭人を連れてきたという可能性はゼロではない)
余談
ちなみに曹操は、会稽郡ではないが、隣の丹楊郡には行ったことがある。
赤壁の戦いのとき・・・ではありません。
初平元(190)年、曹操は董卓の中郎将徐栄に汴水で大敗します。
その直後、再起のために丹楊太守周昕を頼って行きました。
周昕は会稽郡出身の名士ですし、弟の周㬂は、その後しばらく曹操と行動をともにしました。
もしかしたら曹操は、彼らから倭人のことを聞いたかもしれない。もちろん妄想の域を出ませんけれども。
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