大学の先生はteacherではなくprofessor
はじめに
私は、日本の大学で助教としてはたらく研究者です。
ふだん学生からは「〇〇先生」と呼ばれますし、同僚にあたる方からもそのように呼ばれます。
ただ、どれくらいの日本人が、大学の先生はteacherではなくprofessorであることを認識しているのだろうかと最近思いました。
teacherとprofessorとは
Chat GPTで両者の違いをきくと次のような回答が得られます。
また、これらは仕事では資格や役割の点で重要な違いがあります。
私が感じる違和感は、高校までのteacherと大学のprofessorを同じような職業だと認識して、同じような役割を求めている人が多いのではないかということです。
たしかに、大学のprofessorも教育や指導などを行います。
ただ、professorとteacherではその仕事に就くまでの過程や資格が全く異なります。
大学教員になるためには多くの場合、博士号が必要です。一方で、高校や中学の教員になるために必要な教員免許は必要ありません。
つまり本来性質が違う仕事のはずです。
しかし、
(1) 学生が高校の頃の延長のような気持ちで大学に所属している場合が多い
(2)「先生」という同じ言葉を使う
という2つの事実が絶妙に作用しあって、大学が高校とは違う場所だとはわかっていつつも、大学の先生に高校の先生と同じ役割を求めている人は多のではないかと感じます。
特に、「言葉」というのは重いなと思います。
「言葉」は概念を形成するものであり、概念そのものです。
例えば、日本語には「猫舌」という言葉があるため、自分が猫舌だと自覚している人が多く、この世にそれなりに「猫舌」の人が多いことを認識しています。
しかし、英語や中国語には「猫舌」という言葉はなく、ただ熱い食べ物や飲み物が苦手だと表現します。
これは、イギリス人や中国人に熱いものが苦手な人が少ないからでしょうか?ただ、その「言葉」があるかないかだけの違いではないでしょうか?
つまり、私が思うことは、大学教員も高校教員・中学教員も「先生」と呼ぶ日本と、高校教員・中学校教員は「teacher」、大学教員は「professor」認識する英語圏では多かれ少なかれ認識や捉え方の違いが生まれているはずだということです。
思うこと
働いていると教員のことを、学生が「同じ人間」だと思えていないのかなと思うことがあります。
日本は上下関係が厳しいので、敬語や敬意を払いすぎることで、「あの人は違う人だ」という感覚が良くも悪くも染み込みすぎているのかもしれません。
これが「teacher」と「professor」を同じ「先生」だと認識していることが理由なのかどうなのかはわかりません。
ただ、どこか根深いところで何か意識の違いがあるんだろうなと感じます。