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「いただく」ということ

「いただきます」。
手を合わせたのち食事を始める。
聞いた話だと、これは日本独自の文化らしい。

しかしながら、「命をいただく」瞬間に向き合うことは少ないだろう。
スーパーで購入する魚や肉は切り身が多く、
一匹ものでも生きたものは少ない。
ひょっとすると、防衛として意識的に目を向けていないのかもしれない。

今回、ひょんなことから「命をいただく」ことに向き合う機会があった。
その感情を今後も大切にしておきたいと思い、備忘録的に書いてみる。


1,旅先の店で

先日、旅先で入った店で、その地域の名物があると伺った。
その地域は港町で、新鮮な魚介がよく食されていた。
その中でもいかが有名で、とりわけ鮮度の高いものは生きたまま食べることができるらしい。
なかなかない体験だと思い、迷わずそれを注文した。

ほどなくして到着。
なるほど、確かに生きたままのいかがそこにあった。

普段なじみのあるいかは白色だが、このいかは美しく透き通っていた。
鮮度が高い証拠だ。
刺身として身は切れているものの、まだピクピクと動いている。
「いかはストレスを感じると赤くなるんだよ」
直前に聞いた情報通り、身が赤色になったり、透明に戻ったりを繰り返している。
目の前のいかは、生きているのだ。

2,命を目の前にして

めったにない貴重な機会。
実際、目の前のいかは非常に美味しそうではあったが、
それと同時に少しためらいの気持ちも湧き上がってきた。

「命をいただく」という実感が、突如として表出したのだ。

生きものを生きたまま食べるなんて、これまでの人生そうそうない。
かにを茹でる、魚を刺身にするなど、確かに同様の経験は幼少期にも何度かしている。
しかしそれからかなり期間が空いており、それらについても、自らの手でその瞬間を経験していなかった。
店のスタッフの方、あるいは家だと親が一瞬でさばいてくれたため、
瞬間的ではあっても持続的に目の前の命に相対することはなかったのだ。

3,命をいただくということ

とはいえ、私たちは日々、生き物の命をいただいて生命活動を成り立たせている(ヴィーガンの方を除いては)。
そして、目の前の命はすでに「刺身」として提供されている。
であるなら、僕の行為は一つしかない。食べるのみだ。

覚悟を決めた僕は、目の前の命に対し、手を合わせた。
そして声を出す。「いただきます」と。

普段は何気なく言っている6文字の言葉が、重みをもって聞こえてきた。
そして普段は日常の何気ない行為である食事が、特別なものに思えた。

目の前の命は、口に入れてからもそれを実感させてくれた。
げその吸盤は口内で張り付いてくる。
先端部は赤色、透明を変わらず繰り返している。
慣れない感覚にほんの少しの怖さを覚えながら、一気に食す。

そうして食べ終わった後、「ご馳走さまでした」を言う瞬間まで、
僕は緊張気味で食べていた。
この感覚が「命をいただく」ということなのかもしれない。

普段僕らは、命をいただいていると実感することは少ない。
食肉や切り身の状態からは、生を想像することは難しい。

しかしながら、この「命をいただいている」という感覚は、
常に持っておきたいと思う。
ヴィーガンやベジタリアンでは(少なくとも今は)ない僕は、
今後も生き物の命をいただくことにより生命を維持していくことは確かだ。
そこに命があって初めて食べられるわけであり、
当たり前に肉や魚を食べられるわけではない。

命をいただくということ自体が悪だとは思っていない。
だが、命をいただいている以上、その命を無駄にはしたくはない。
例えば、食べられる部分はくまなく食べること。
例えば、食事を残さないこと。
自分にとっては当たり前だが、命に敬意を払うことのひとつだと思う。

命に感謝しながら、日々の食事も楽しみたい。


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