私とシェーファー(日本サウンドスケープ協会誌 Vol.23 に掲載)
私が会員として所属している「日本サウンドスケープ協会」の協会誌へ、サウンドスケープという概念の提唱者であるR・マリー・シェーファー(1933〜2021)との出会いについて寄稿させていただいた文章を転載します。
※ 一般公開版は一部非公開となりますが、充実の内容でワタシ的にはとても楽しい。
それでは、以下寄稿文となります。
私とシェーファー
シェーファーをどこで知ったのか、実はよく覚えていない。彼について思い出したのは昨年のことだ。忘れていたサウンドスケープという概念が、あるとき閃きとともに飛び出してきて、以降、私の思考の柱となっている。今回は、その経緯を振り返ろうと思う。
私は、かれこれ10数年ミュージシャンとして活動している。キャリアの前半は多くの商業音楽の案件に携わってきており、メジャーやインディーズのアーティストの音源やブランドのキャンペーン用劇伴など、主役脇役問わず音楽が商用利用される様を目の当たりにしてきた。
活動する中で、ある違和感が芽生えた。音楽は音として独立して認識されず、例えばエンターテイメントなど別のテーマに付随することで価値となっているのだと。その違和感はやがて、「音をありのまま認識して捉え直すことができたら、世界はどのように映るのだろうか」という好奇心に変わっていった。
それから数年後、芸術修士を目指して大学院に通うことになる。そして大学院2年目の研究題材を決めるときが来た。地域の文化資産を取り上げるというものだった。
何を題材にしようかと思ったとき、ふいに頭の引き出しが開いてシェーファーのサウンドスケープという概念が飛び出してきた。何かに導かれるようにサウンドスケープ関係の文献を漁り、この分野で地域を研究することに決めた。
研究では、地域における音の価値を論証する方法として、サウンドスケープを用いた。音から捉える地域のあり様について述べることで、地域のアイデンティティを新たな観点で認識することに寄与したのではないかと振り返る。
そして、私の聴覚は変わった。そこに流れる音に、ただ気づくことができるようになったのだ。思考という脳の活動を止めて、聴覚というセンサーが反応した対象にただ気づくことで、ありのままの音を認識することができるようになった。一種のマインドフルネスなのだと思う。
これは、前述した音楽の在り方への疑問、音への純粋な認識とは何か、という問いへの答えとなった。
いま、世界では溢れる情報を脳が処理するばかりで、五感から気づくことを忘れているように思う。脳は情報に反応し続け活動をやめず、五感のセンサーが捕捉する対象を思考が遮ってしまい、ありのままの姿を認識できずにいるのではないだろうか。
サウンドスケープという考えに触れ、ただそこに流れる音(自然の音が望ましい)に気づくことを繰り返すことで、世界を捉える五感のバランスを再構築することができるだろう。それは、虫食いになっている感性を蘇らせ、今を少しだけ新鮮に感じることができる方法でもある。
(ここまでは、寄稿させていただいた文章)
P.S.
後日談。シェーファーとの最初の出会いは、学部の卒論だったことが明らかに。(英米文学科だったくせに「選曲のレトリック」というタイトルで、映像/空間と音楽の意味作用について、ソシュールやバルトの記号学などを援用して論じたもの)
つまり、13年前の学部卒論で知ったことを修士研究で思い出して軸にするという、なんというか至極真っ当な流れというオチになった。