【評論】表層を超えて:『あいつら全員同窓会』によってもたらされる「沈黙」
この文章について
本稿は、批評サイト「週末批評」に応募し、掲載には至らなかったものを、そのまま公開したものです。応募の際、てらまっと氏から丁寧な講評を頂き、大変感謝しております。初めて批評サイトに原稿を送ったのですが、予想以上の評価を頂き、感激しました。指摘された改善点は改善した上で、これからもさらなる向上を目指していきます。
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本編 表層を超えて:『あいつら全員同窓会』によってもたらされる「沈黙」
1.
音楽にしろ、文芸にしろ、問題なのは、「想像以上の含意」の可能性をチラつかせられる事だ。それは、あたかもヴェールの下に何かを隠している、ミステリアスな女性のような風貌を纏っている。こちらがある一定の考えをもって、それなりに解釈してみたところで、「私の真意が分からないのね」と、まるでこちらが幼稚で劣っているかのように嘲られる疑念が拭えない。問題なのは、このヴェールに魅せられて、何かを言う事自体躊躇ってしまう事だ。
もしくは、中にダイアモンドが詰まっているかもしれない、とこれみよがしに装う箱。開ける権威は作者だけが持っている。こんな状況で、「ええ、でも中に何も入ってないかもしれませんよね」と言ってしまうと、途端に箱を開けられ、屈辱を味わされるかもしれない。この非対称性を利用し、「雰囲気」小綺麗な箱を高値で売りさばく芸当が増えている。この評論の目的は、仮に中にダイアモンドが入っていたとしても、「くだらない」として箱の上から砕き散る事だ。
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2.
『あいつら全員同窓会』を聞いている。この楽曲との向き合い方としては、まず一度聞いた。そこでの印象はまずまずであった。それで、しばらく忘れていたのだが、「歌」抜きの「曲」は大変優れたものである、と思って久々にOff vocalをリピートした。これは、On vocalは優れていない、ということではひとまずない。ただ、一旦、歌い方とか声質は特に好みではなかった。そして、肝心の歌詞が「意味不明」であったので、一旦、On vocalは「評価不能」になったのだ。
「ずっと真夜中でいいのに」の「あいつら全員同窓会」は2024年9月時点で、3500万再生を上回り、ヒットしている。歌詞の明瞭でなさから、考察記事がそこそこ出回った。「ずっと真夜中でいいのに」はインターネットを中心として活動する音楽グループである。こんなところだろうか。基本的には、若者の間で、絶賛、である。私も曲調は好きだし、絶賛、でもいいかもしれない。ただ、一点、歌詞が分からなかった。
私は、小学生レベルの音楽知識すら欠如しているので、楽曲は感覚を由来とした評価しか出来ない。評論家は現代的だと評しているようだが、個人的にはどことなくクラシック的に感じた。しかし、それも恐らく、ストリングスが使われているから、ぐらいの浅薄な理由でしかないだろう。これ以上の恥を晒さない為、楽曲評価は控えよう。ともかく、僕はOn vocalをどう位置付けるか考えるため、On vocalも聞き直した。ここからは、On voval、つまりこの曲の完全版に対する評論である。
ところで、Off vocalの音源にはMVがない。そこで、On vovalを聞いた時、MVが当然初めて目に入る。それについて、申し訳程度の言及を挟みつつ、完全に論評はしない。なぜなら、端的に、「目に入ってきてしまった」分には言及したが、それは本筋ではないからだ。元はと言えば、歌詞のみを批評するつもりだった。それに対しては予め謝罪しておきたい。
3.
まずMV冒頭で、点滴らしきものを腕に刺している女性が映し出される。この時点で、若干の安っぽさを疑う。この時点でこの楽曲が安いかは確定しないが、後にそれを判断しなければならない気持ちに駆られる。これは、そもそも、比較的気楽でない人間の実存的行為である点滴を用いるなら、それ相応のメッセージ性を用意して欲しいという要求と、単なるメンヘラ御用達のモチーフに過ぎないのではないかという疑念と、実存を抽象化したところで、実存の方が上回るという美学に基づく、楽曲の完全否定の可能性を呼び起こすからだ。もしくは、これを聞く若者は、若者であるが故に、生命というものを抽象化してしか理解できない性質をはらんでおり、こうした要素は単なる戯言の一種と批評してしまう可能性がある。あくまで可能性だが。
次に、ハリネズミが落ちる描写。ここから解釈不能が本格化する。もしくは、「それっぽさ」の集合体である。「当たり障りのない儀式みたいなお世話になってます」はその一例である。まず文法的に疑問がある。「~儀式みたいな」は形容詞句であり、その後は名詞として「お世話」が用いられている。つまり「大変なお世話になっています」と同様の文法だが、それでも違和感があるだろう。こういう文体を用いる理由は、二つのパターンがある。一つは、独自の批評性を持たせているという理由、もう一つは、それを騙ってキャッチーにしているだけという理由である。文法崩壊のそれ自体の可愛らしさとエッジ、意味深さ、独特さは、「本物」なのか、「偽物」なのかの見極めを強いられる。
「手帳開くと もう過去」「先輩に追い越せない 論破と」「明る日も来る日も 道草食って帰るが贅沢」。この中で一番日本語として違和感のあるのは二番目である。「論破を、追い越す」のがどういうことかを説明出来る人がいるだろうか。「いや、韻を踏んでいるんだよ」というのは分かるが、韻を踏んでいるのは「論破と」の部分である。「追い越す」を変える方法はなかったのか?とはいえ、これは小言である。歌詞全体の繋がりを読み解いていこう。一番目は、単に、「もう9月か」のような、手帳を開いた一シーン。二番目は、何かしら論破の発生。三番目は、仕事帰りに飲みでもしているのだろうか。こんなところである。生活というだけで、意味の繋がりがない。このような事を延々と指摘し続けてもいいのだが、すると、こういう人が沸いてくる。「これは歌なので、詩なんだ。そのような論理的な読み方をするのはおかしい。お前は詩的センスがない。云々」。黙っていて欲しい。定義を勝手に行い、それを元に演繹する人間相手には、定義の拒否だけでなく、こちら側も一方的に定義を押し付ける権利を有する事を理解しているのだろうか。
4.
さて、ここからは本楽曲におけるメッセージ性のようなものを読み取っていこう。「嫌味に費やすほど 人生長くないの」「どうでもいいから 置いてった あいつら全員同窓会」「なりたい自分に 絡まる電柱」「ぼーっとして 没頭して 身勝手な僕でいい」「会っても癒えない世界で 匿名の自分に なって 誰を批判しなくたって 発散できる言葉 探してる」。やっていることは、作詞家から見て、嫌らしい人間を「置いていっ」て、「同窓会」と評し、しかし「なりたい自分」にはまだなりきれていない。「ぼーっとして 没頭して」いる(つまりADHD的な)自分でいい、と肯定してみて、他者のSNSの使い道に嫌悪感を抱きながら、自分は別の道を模索したい。日本人の2割くらいは思っていそうな事である。
「誰かを貶して 自分は真っ当 前後を削った 一言だけを 集団攻撃 小さな誤解が命取り あんたは 僕の何なんだ そんなやつに 心引き裂かれたんだ 想像は 想像でしかないし 粘り強いけれど 打たれ弱いし 心臓を 競走する前に」。なるほど。ここに来て、冒頭の点滴女性の正体が明かされる。SNSで誹謗中傷をしている人たちによって、傷つけられた人の象徴だったのだ。ところで、これは自意識の問題である。確かに、SNSでの集団攻撃も誹謗中傷も問題だろう。しかし、この曲は、単なる客体としてSNS社会や実生活を観察しているだけに留まらない。だって「あいつらは同窓会」なのである。これは「私は同窓会じゃない」を暗に主張している。ここでの視点は、また二元論の領域に立っている。即ち、本楽曲には、「私も批判対象と紙一重でしかないよな」、という葛藤からの苦しみは存在しない。否、存在したとしても乗り越えれるものとして捉えている。
こうした本楽曲の視点は、単に強者目線と評してしまってもいいような気がするのだが、もう少し進めていこう。もし、強者目線、もしくは、「健常者目線」であるとしても、それを批判する緻密なロジックが必要であるし、そもそも、「自意識の問題」の説明が付いていない。それを提示するのが、「なりたい自分に 絡まる電柱」である。ここで、なりたい自分にからまっている「電柱」とは、心理的・社会的障害でも、成功の前のハードルでもない。「有象無象の他者」である。つまり、「電柱」のような他者である。一般的に、電柱がどのような比喩で使われるかを考えれば自明である。もう少し正確に言うと、「絡まる電柱」なので、「自分を邪魔してくる他者」である。ここに来て、本楽曲はこう指針を発表しているのである。「皆様にも、自分がなりたい自分に向かって努力しているのに、それに水を差すようなつまらない他者がいますよね?そんな奴らは無視して、身勝手な僕でいい」。
ここまで解釈すると、鋭い批判を浴びせて論を落とすぐらいしか落とし所がなくなってしまうかのようだ。しかし、僕が更に指摘したいのは、この強者的な自意識とは、本来的に弱者性を意識しているから、反発で生まれているものだということだ。何せ、「同窓会」からハブられているのだから。そこで、社会的な弱者性に対して、「なりたい自分」を目指すのが真の価値だ、と自己啓発的に価値観の転倒を若干試みている。ここには、当然、申し訳程度の強者性を誇示する他者は、その実、その「真の価値」を求めて苦しんでいるかもしれない、という想像力は働いていない。と、同時に、当然のように、これは自意識の話である。つまり、自己完結的で、他者を他者として評価するのではなく、他者に抑圧された自己こそが、真に強者になろうと試みているに過ぎない。しかも、ルサンチマンではなく、現実的な手法からである。
5.
さて、「同情」が強者を殺してしまうという現場に遭遇したことはあるだろうか。私は敬虔な信徒の立場から、「殺戮」してもいいのだが、生憎、これを他者に求めるのは不可能な気がしている。もっというと、これに、「キリスト」「ニーチェ」をもっと大胆に絡めて論ずるのは自然だが、それらは単なる比喩に過ぎず、ナンセンスである。直近、もっとも評価されているアーティストが、「私は強者になりたい」「もっと強者たろう」というメッセージの楽曲を掲げている事を示したところで、賞賛されておしまいである。そして、私自身も何も思わない。ここからは、同じSNSの問題に対して、私がどう対処しているかを示そう。
さて、このアーティストと違い、私のような一般人は誹謗中傷をやられたい放題やられても、屈するしかない。心理的ダメージを受けても、実績で黙らせることが出来ないからだ。もっというと、ゲーム理論では誹謗中傷をする側が勝者に回る。訴える金も時間もないからだ。誹謗中傷をしている人間はくだらない人間とはいえ、私も一級品のくだらない人間である。つまり、批判は自己批判に繋がる。では、どうするのか。こちらも価値観の転倒を行うしか勝ち筋はない。こちらの場合、完全な転倒である。ずばり、「誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5,39)を実践することである。「強者になって、無視」を勝ち筋とするACAね理論に対して、「無視」しているだけでは負けるので、「屈服した上で、同情」する方法を取るのだ。もう少し地味な言い方をするなら、「でもこいつらも可哀想だよな」と思う事である。それによって上に立つのだ。「あいつらは同窓会だ」とは切り捨てない。
こうした手法を取っている私からして、この楽曲のメッセージ性は、喧嘩している二者のうち、正論を吐いている側の意見を聞くような者だ。それには反論をしたくもならない。だから、「何も思わない」。これは、人間の中で賞賛される正統派のロジックを構築しているに過ぎない。端的に言って、私に必要とするものではないのである。では、私が必要とする理論とは何か。「あなた方の天の父が完全であるように、あなたがたも完全なものになりなさい。」(マタイ5:48)である。とある人によって負け犬の論理と非難された論理が、正に負け犬の勝ち筋なのである。
つまり、「何も思わない」、突き詰めると、「何も思う価値がない」歌詞が展開されている。ここで、私が、普遍的な議論を行っていない点に着目する方もいるだろう。端的な話、この議論が意味を持つかは、二者のうちどちらかを選ぶかで決定される。「ACAね」か「私」か、あなたはどちらに近いかである。ここに来て、全て回収される。文法崩壊も、意味不明な歌詞も、それを通すことの出来る権威仕草で、強者アピールに過ぎない。そんな空っぽさに意味を見出して踊ろうとするのは、その実、只の権威主義である。にもかかわらず、申し訳程度に「点滴女性」も出してくる。弱者性の匂わせである。突き詰めると、これに対しては「ノーコメント」が正解なのである。
当たり前だ。全て当たり前だ。「誹謗中傷をしている人間は気にしてはいけない」のも、「気にせずなりたい自分になればいい」のも、「ACAねがそのような対処法を取っている」のも、「これはチャチなエンターテイメント」なのも、「そう評すると叩かれるし、その評自体が古臭い」のも、「イエスの方がイイこと言ってる」のも、「若者は馬鹿で何も考えていない」のも、全部論じる価値がない。只、一言だけ言いたい。凄くつまらない。そういう歌詞だった。