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言語のア・プリオリ性 ~サルトル"飛躍的"解釈~【キリスト教哲学】

  イメージの本質。

 つまり、概念は反省的領域では純然たる思考として現れ、 非反省的領域ではイメージとして現れるのである。(p266)

『イマジネール』サルトル,講談社学術文庫

 即ち、イメージの客体化が思考である。これは、思考が構築物である事を意味しない。むしろ、イメージというのは一種、外的に事物を構成するときに必要不可欠であり、よって、概念的理解は同等に不可欠である。これは、言語[=思考]のア・プリオリ性を示しているかもしれない。この、サルトルの観察は酷く正確に思える。概念というのが、我々の事物理解に必要不可欠であれば、「それは単なる概念だ」との指摘は意味をなさない。むしろ、あらゆる概念をどう使うか、が問題になる。

 ところで、僕がカトリック求道をするきっかけとなったとある先輩がいる。その方は、聖書の天地創造及び、進化論と矛盾する箇所を象徴解釈する事によって、科学との整合性を取ろうとしていた。僕のカトリック信仰は、誠にその方の言明が真理だと理解した事に基づくので、僕もその立場を取る。そこで主張されていたのは以下の事だ。発狂したアフリカのサルに「言葉」が宿った。「言葉」は神だった。なんと美しいこの世の真実だろう。

'初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 '

ヨハネによる福音書 1:1
https://www.bible.com/ja/bible/1819/JHN.1.1

 それ故、僕は言語のア・プリオリ性に関心がある。ヨハネ福音書の記述と噛み合いが悪いのは、当然、言語を社会構築的に説明する論である。しかし、単に聖書条文を信用するので、噛み合わない科学を排斥するなら、それは頭の固い信仰者のする事である。むしろ、真の信仰者は世界との調和、科学的弁明を必要とする。しかし、それにしても、どうも、言語の社会構築的立場はあまりにナンセンスだと思うのだ。それは、「なぜ在るのか」問題*に極めて近い話だからだ。利便性だけで、そのようなものが「作れて」しまうというのは、言語の神秘を前にした発想とは思えない。

 しかし、単に真理を指し示すというのは、極めて退屈だ。言語がア・プリオリだ、という事が事実だとして、それを何度も繰り返すのは飽きてしまう。むしろ、反キリスト的あらゆる論理を学ぶ事によって、議論の俎上に立てる(反論できる)能力を身につけた方がよほど有意義というものだ。キリスト者は、キリストの真理が万物に及ぶと思うなら、他領域を包括する真理としてキリストを提示する必要がある。ここで問題になるのは、あらゆる概念はア・プリオリとして、それは神の創造秩序と大いに関わっているという事である。それならば、この世に真摯に向き合う必要がある。

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抜こう作用
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