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〈書評〉『武士道』新渡戸稲造:日本精神の源流とその現代的意義

 日本人の武士道精神は、今も生きているのだろうか。

 アメリカ合衆国で出版された新渡戸稲造の『武士道』は、日本人の道徳観の由来を説き明かし、声高にこの精神の不死を叫んだ。

 キリスト者である新渡戸稲造にとっては、対外的に日本人をどう扱うかが課題だったと思われる。もし、単に異教の文化として、日本の精神性を切り捨てるなら、自らの文化体系の誇りに泥を塗る事になる。日本人において、武士道というものの美しさを理解しないのは難しい。切腹、忠義、礼という形式に込められた深遠にして美なるもの。これを尊く感じたのは、新渡戸も同様だった。しかし、これを外的に見ると、ともすれば未開的で、単に打ち捨てられるものと捉えられかねない。そこで新渡戸は、武士道が、他の文化体系からみても、渾然と輝くものを持ち合わせていると主張する必要があった。

 『武士道』は、まず武士道が日本人の道徳体系を規定する力を持っていた事を主張した後、具体的な武士道概念の解説に入る。義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義…を解説した後、教育、克己、自殺と復仇、刀、婦人について述べる。そして、最終章で、まるでストイック主義のように、根幹でなくなる事は有り得ても、精神が潰える事はない、と主張する。

 僕は、武士道の根幹部分のひとつに、「わきまえ」があるように感じる。例えば、「義」においては、「死すべき場合に死し、討つべき場合に討つ」という。これは、「べき論」に基づく「わきまえ」のひとつである。「忠義」において、主君の為に自らの幼子を犠牲とする話。これも「身分」を「わきまえ」ている。

 「わきまえ」というのは、道理を理解する、ということだ。端的に言って謙虚な姿勢のひとつでもある。そこで言われる道理とは、確かに単純なもので、旧来の身分関係や美学に沿ったものなのかもしれない。もしくは、人権や人類平等、博愛思想以前のものなのかもしれない。ただ、麗しさがあるとしたら次の一点にあると思われる。それは、世間一般で言われていることを、深く内面化し、自分のものとして受け継ぐという姿勢である。この、伝統主義的な姿勢は、根幹にある日本人精神、つまり、受け継ぐ前の伝道者の心の正しさを元に正当化される。立派な師の言明は、師が立派である所以と思う。よって、非合理といえども受け入れてみる。これが、日本の文化を正当化出来る理由である。

 現代日本人の大衆における、同調圧力、集団心理。「周りが言っているからそう」精神。これは、一般的には良くない傾向として処理される。しかし、これはある意味で武士道的なものの根源にあったのと同様のものかもしれない。信頼できる師である親や友達、その言葉を受け継いでしまう。そこで、本来、論理で言ったら非合理的だけれど、脈々と精神自体は受け継がれていく…というある意味では肯定的な見方もできるのではないか。

 とはいえ、新渡戸稲造は、所々、キリスト的精神に比べ、武士道精神が劣るのを認めていた。仮に優れた精神性であっても、全く変質しないと、時代状況にあっては大失敗に至る。その一つが太平洋戦争だと思う。GHQに統治された後、日本はキリスト精神の表面部分だけを受け入れる事になる。その上で、新渡戸の言うように武士道精神は死に絶えなかったのかもしれないが、少なくとも精神との相互関係であった行いは消滅した。今の日本で武士道精神を叫べば、継承に失敗した架空の伝統に固執することになるのではないか。「日本の土地固有の花」は散ったのか。散ってないのか。それは、今後の世界を規定していく我々日本人が、決めていく事なのである。

 


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