ラッキーしか起きない人になりました
2008年に俺は宇宙一ツイている漢になったのだけれども、2021年にラッキーしか起きない人になった。
まずは今から14年前、最初に宇宙一ツイている漢になった話から記載させてもらおうと思う。
沸点と融点そして氷点
大きな変化を感じるとき、沸点と言う言葉を使うことがある。
だが、何故沸点なのか?
逆に氷点でもいいんじゃないか?
ふとそう思った。
融点は固体が液体化し始める温度を指す。
沸点は液体を気体にし始める温度だ。
といっても水に限る話しだが。
でもって、氷点は水を固体化させる温度となるらしい。
なので、沸点の対義語は凝固点かと思っていたが氷点らしいのだ。
何故、そんな話をし始めたかと言うとこの日に打ったパチンコに由来がある。
この日は仕事だったのだが、夕方くらいにノコノコと自宅方面の現場に向かい、頃合だと思えたので、夜間対応の平日当番と言うこともありそのまま直帰
財布の中身は2千円
先月と今月の携帯料金と奨学金の返済をまだしていない
まだ給料貰ってから僅か10日
パチンコで勝たない限り明日はこない。
なので、借りた金で勝負!!
3万円を借り受けた。
最初はパチンコ台を転々として1万円負け
その後に、俺が座った台は本日26回当りの490ハマリの台
前日23回当り
前々日29回当り
という好調台。
御殿場にある仕事先のホールでパチンコのエヴァンゲリオンは好調が一週間くらい続くと聞いていたので素直に乗っている台をと思った。
でこれが、投資千円で22回転位回る優秀台。
これは勝負だな
そう思い、不退転の決意で臨んだ。
これが投資2万円でアスカ群一度引くも外れラッシュ
・・・
おかしいだろ?絶対
何故、こんな好調で回る台を打っていてこんなに流れがないんだ?
おかしい、ありえない
そう思っていた。
そして、さらに金を突っ込み始めた時に思ったのだ。
変化が
変化が必要だと。
通常、物ごとが変化する時を沸点が訪れて変質したといった類の言葉を聞くことが多い
熱を持ち、それが何かを変える原動力になるのだと。
だが、確かに液体が気体化するのはたいそうな変質だけれども
逆に液体が固体化する氷点もそれはそれで大きな変質ではないだろうか?
これだけ寒い結果を頂戴し続けていたら、少なくとも液体は気体にはならない。
あまりの寒さに固体化してしまいそうだ。
どうするんだ?
文無し帝王の名前を縦にし借りた金も全負け
身動きの一つすら取れない
こんなんでいいのか?
いいはずがない。
液体が固体になってしまうようなこの極寒の状態を捻じ曲げる必要がある
頼む、当れ!!
そうじゃないと俺は俺は・・・・
完全破滅
もう、逆転のための布石などといっていられないくらい余力も何もかも根こそぎ奪われる
何故引けないんだ?
好調台が回るのに。
なあ、何故なんだ?
そう思ったとき、この発想じゃ駄目だ
そう思えた。
液体が固体化するような
氷点
破滅の底で俺は変質する。
破滅こそ逆転への布石。
破滅なきところに逆転もなし。
考えろ!
何かがこのままでは駄目なんだ。
そのとき、ふと最近読んだツキの最強法則の内容を思い出した。
今の俺
流れがないとかツイていないと思っていないだろうか?
いや、間違いなくそう思っている
よくよく考えれば、ツキや自己啓発系の本には大体同じようなことが書かれている
まったく接点のない別々のツイている人間が同じことを言っていたらそれは真理なんじゃないか?
そういえば、日本一の個人バリュー投資家の故竹田和平氏(何故か楽天ブログをやっていた)も自分を幸運だとのたまい、わくわくドキドキという凡人には理解しがたいことばかりを主張している
この理解しがたい内容を結果をだしている接点のない複数の人間が言っているならそれは正しいんじゃないか?
そして、理解しがたいから俺は凡人
ということは、上記の人物達信じて、彼らを見習い、俺自身を世界一ツイている人と思い込めば意外と流れがくるのかもしれない。
いや、待てよ
そもそも世界一ツイている人間になることなんて、非常に簡単なんじゃないか?
そもそも、世界一ツイているというのはどういうことだろう?
それは私が、「世界一ツイていると認識する人間」が世界一ツイているのであって客観的な認識ではない。
客観的に見れば、俺は世界一ツイている人間にはなりえないかもしれないがツキなどと言うものはそもそも個人の主観に過ぎない。
ということはだ。
俺の認識で俺が世界一ツイていると思えば、その瞬間から俺は世界一ツイている人間だ。
そうだ
俺は私の認識で世界一ツイている人間になろう。
今、この瞬間から
俺は世界一ツイているのだ。
馬鹿馬鹿しい?
確かにそのとおりだ。
だが、これを馬鹿馬鹿しいと考えるのは「普通」の発想であって、俺の求める発想ではない。
普通の発想をし、普通の結果を頂戴し、絶句させられている
だから、俺に必要なのは異常な思考と異常な結果。
普通は嫌いなんだ。
普通恐怖症なんだから
普通の「他者」が呆れるような発想で丁度良い。
異常な結果を求めている以上、発想も異常にすべきだ。
そうじゃなきゃ
異常に良い結果など自分の身に訪れるものかっ!!
そうか、そうなんだ。
俺は世界一ツイている人間になろうと決め、今この瞬間からそうなったのだ。
だったら、世界一ツイている俺が打っているこの台が当らないはずがないではないか。
俺は世界一ツイているんだから。
引けないはずがない。
これだけ引っ張っているのは当った時に連荘が止まらなくなるためなのだ。
そうだ、そうに違いない。
いつ当ってもおかしくない。
そう思っていると、総投資三万三千円くらい・・・
1007Gで、エヴァ4だったのだが、いきなりブラックアウトで新生モードへ。
そりゃそうだろう、俺は世界一ツイているのだから。
誰がなんと言おうともうぶれない。
俺に起きる全ての事象は、俺を幸運へと導く布石に過ぎない。
控え目に50連くらいかななどと思っていると12連
俺の疲労まで考慮して連が続くなんてさすが世界一ツイている漢
で、時短抜け126Gくらいでミサトの部屋→シンジ君訪問で加持さんと待ち合わせてきたんだ→加持「枝もって来ちゃった」みたいな台詞。
当然当りでこれが4連
こんなに伸びないなんて、すごいレアケースでなんてツイているんだと自分に言い聞かせ、まあ、どうせすぐ当る、ツキすぎて確変しか引けないんだよなとぶつぶつ言いながら3箱飲ませて終了。
K1の放送前に丁度終わるなんてなんてツイているんだと感涙
うん、この異常なくらいで丁度良い。
途中、スルーを通らなくなっては今拾うと、きっと単発だから拾わないんだ、ラッキーとか
アタッカーで弾かれてラウンド中の時間が延びるたびに、丁度確変の周期に終わるように自動調整されるなんてさすが世界一ツイているだけある。
などともう、完全に変な人になりながら打っていた。
が・・・
それでいいんじゃないか?
結果的に逆転したし、隣に座った人物も連荘していたが、世界一ツイている俺の隣に座ったのだから当然だ。
世界で2番目にツイている人だな
そう、俺は決めたんだ。
世界一ツイている人間は俺だと。
いいじゃないか「普通」の人に罵倒されるくらいの異常な発想じゃなきゃ
永遠に「普通」を、凡人を辞めることなどできない。
だから、狂気と呼ばれても構わないという覚悟を持とう。
どんな事象も、俺に幸運をもたらせるための下準備なのだ。
松屋で食事を取ろうとしたら、米が炊けるのに10分かかりますといわれたのだが、これも考え方ひとつ。
世界一ツイている俺だからこそ、炊き立ての米にありつけるのだ。
さすが俺。
ラッキーマンよりもラッキーだ。
こりゃ、来週は競馬で蔵が建つな。
5個くらい。
こうして俺は2008年宇宙一ツイている漢になりはじめた
そしてそれから13年
2020年の事だ。
俺は進化してラッキーしか起きない人になった。
宇宙一ツイていたとしても、そうじゃない時もあるという事だ。
むしろ、起きる事象がすべてラッキーな方がいい。
少し前の事だ。
通勤中にヤフーニュースを見ていたら一つ刺さった記事があった。
それが外見差別と戦った藤井輝明さんという方の記事で、この方海綿状血管腫と呼ばれる紫色のコブが顔にあり、一昔前の整形をしすぎて顔面崩壊したと言われていた扇風機おばさんのような状態に2歳の時になってしまったらしい。
いわゆるアルビノ等と同じでユニークフェイスと呼ばれている方々とのこと。
この方が心不全で亡くなったという記事だったのだけれども、「バケモノ」と罵倒された過去を乗り越えた方で、その差別を受けていた中でも常にニコニコと笑っていた強い心の持ち主
そのエピソードを一つ引用させてもらうと・・・
あるとき、藤井さんが『友人のYさんが、アザのことで僕のことをバカにしている』と怒ったことがあった。
ああ、藤井さんも普通の人なんだと思いました。
笑顔は、彼なりのカモフラージュだったのかもしれない。
『笑顔で生きると決めたんだ』と僕に言ってくれたことがありました。
ここを読んだときに、やはり受け止め方は人それぞれ違うんだなと思ったと同時に、この藤井さんは決めた人なんだなと思った部分が刺さったのだ。
多分、このエピソードトークをした人は強く何かを決めた事がないんじゃないだろうか。
そもそも今までで決める必要がなかったのかもしれないが。
俺も自分にはラッキーしか起きないと決めた人間なので、決めるの概念が共感できて、メンタルを鍛え続けることでこの藤井さんは生き残ってきたんだなと思ったんだよな。
決める事は結構重要だと思っていて、個人が自分の力で変えられる範囲なんてものは結構小さい
たまに自分ではなく他人を変えようとする人を見ることがあるが、自分の可変できる範囲じゃないので人を変えようとするのはそもそも間違っている。
自分が変えられるとしたら自分の事だけだ。
習慣とか受け止め方は選べるし、自分自身で変えられる範囲だ。
俺にはラッキーしか起きないと決めているので、起きた事象を不快に感じたとしても、ラッキーな理由があるはずと決めた結果に準ずるように変換して、自分にとって都合の良いように受け止めている。
そして、変換が間に合わないくらい立て続けに変換が必要な一見不快なことが起きたときには、過去の自分に都合の良いところだけを切り取って書いたスマホのメモアプリで自分で作った「ラッキーノート」を見て、やはり過去にはラッキーしか起きていないからこれもまだ気づいていないだけで何らかのラッキーなんだろうなと思い直すのだ。
何気に、過去の良かったことだけを記載するって結構良いと思っている。
人と話していると、良くなかった事の方がはっきりと覚えているという人もそれなりにいる。
けど、日常生活で都合の良いところだけを切り取ることを無意識でしていたりするのに、何故記憶に応用しないんだろうなと思うんだよな。
例えばなんだけど、ゆで卵、みかん、バナナこれらのどれでもいいが・・・
厳密に言えば殻も皮も食べれると思うんだよね。
美味しいかそうでないかは別として。
でもさ、普通は皮剥いて可食部と呼ばれる中身の美味しいとされる部分だけ食べて、皮とか殻とか捨てると思うんだけど、これってさ、言い換えれば食品の都合の良い部分だけを切り取ってないか?
記憶も同じで、都合の良い良かったところだけを切り取って残して、都合の悪かったことは捨てておけば、結構ハッピーなんじゃないのと思うんだけど、何故食品のバナナの皮は捨てるのに、記憶ではバナナの中身を捨てて皮だけ食べようとするんだろうか
わざわざ記憶のみかんの皮だけ齧るような真似なんかやめて、記憶のみかんの中身だけ食べればいいのにと
食品では無意識にやっているのに、記憶もそうしないことによるメリットってなんかあるんだろうか。
ちょっと前に記載した前の会社の、優秀だけど40年間、360度どこから見てもおじさんの言葉がリフレインされる。
明日死ぬかもしれないんだから、今日の楽しみを明日に先送りするのは間違っていると。
毎日楽しければ結果的に死ぬとき楽しかったと言える。
同様に、都合の良い楽しかった事、良かったことだけの記憶を記載して集めて、見返していれば思い出すのは良かったことと楽しかったことだけ。
そうすれば死ぬとき楽しくて良かったラッキー人生だったねってなるんじゃないのと思うんだけど。
そんなわけで、決めたんだという言葉の記事にちょっと反応してしまった。
俺も決めた人間だしな、何が起きても超ラッキーと。
そうして俺はラッキーしか起きない人になった。
そうなってから大分経っての事
俺はプロの酔っ払いなのでBARによく行く。
その時に酔っ払いとしてのスキルを存分に発揮していた時なんだけど、鋭い切先を喉元に突きつけられたような気がする言葉を頂戴した。
ネガティヴだけど、ポジティブだよね的な内容だったと思う。
カウンターの内側の女の子の切り口は相変わらず鋭くて、思いもしない角度で切り込んでくるなと思わされた。
人に対して、ネガティヴって事?と聞き返したら、頷かれたので、それもあるって事なんだろうけど、ちょっと刺さった。
確かに自己完結できる事に対してはスーパーポジティブにしているとは思うんだが、一方で我以外皆師と言う言葉も間違いないと思っている。
自分が望まない結果を出している人を見ると、読書の著者同様に、俺の代わりに間違えてくれているとは思うので、先生としてありがたいと思うんだけど、確かに俺から見る望まぬ結果って他の人にとってはそうではないかもしれないし、それって他者否定にも聞こえるよなと
その他者否定を目にすると、ネガティヴな情報となり一定数不快になる人が存在する可能性があるということになる
でもって、他者が不快になった結果ってなんだろうかと考えると他者に嫌われるリスクだよなと単純に思った。
そして再び修行僧が洞窟の奥に入っていくような感覚で思考が自分の核へと向かっていくんだけれども、
自分の主観で物事を考えたときに、他者に嫌われる事って、本当にリスクなんだろうかと。
元々youtubeで配信していた時に3000人くらい登録があったけど、何気にアンチが多く、30分くらいの動画を上げた瞬間に俺の動画を見る時間もないのにバットマークが20個くらいついて、罵倒されるコメントが連なっていた。
当初は思い知らせてやりたい中枢を刺激されて、いちいち反論していた。
だが、俺がラッキーしか起きない人になってからは、1秒1秒がその人の命の細切れであり、その1秒の集積がその人の人生そのものなんだから、その人の人生のいくばくかを俺に割いていて、常に動画が上がるのを待ち構えて時間使ってバットマーク付けたり、コメントしているって超ド級の俺のファンなんじゃないかと思うようになった。
まあおかげでアンチ耐性がついたのもあるんだけど。
耐性がついたおかげで、あまり人に嫌われることを恐れなくなったんだよな。
言わないことは嘘ではないので、余計なことは言わないが、嘘をつかずにやっていて嫌われてもそれは仕方がないことだし、嫌われてもいいと思って生きている方が正直さが伝わるのか思ったよりは嫌われない。
そして、ここからが俺の主観だけの話になるんだけれども、ラッキーしか起きない人になると決めて以来、俺は揺るぎない決定事項として、俺にはラッキーしか起きないと決めたんだよな。
何が起きても超ラッキー
この結論だけが決まっている。
となると、他者に嫌われることもそれはラッキーなんだよな。
嫌われることによっておそらく本来巻き込まれていたであろう面倒なトラブルを回避できたとそもそもは思うのだけれども、決定事項がブーメランのように戻ってくる。
俺はラッキーしか起きない
その俺を嫌う他者が現れた
おかげでとんでもないトラブルを回避できるからラッキー
そして、ラッキーしか起きない俺を嫌う人って、よく考えたらラッキーを嫌うアンラッキーな人なんじゃないか?
アンラッキーな人に嫌われるって、俺が不運に嫌われているということになるし、それってラッキーな事だよね的な。
鶏が先か卵か先かの話の様に決めた事が永遠にループされ、勝手に一人でよりラッキーになっていく、おめでたいシステムが出来上がっている。
そう考えると、人に嫌われる事って恐れるようなリスクではないよなと思うんだよな。
これはあくまでも一般的な話ではなくて、自己完結できる範囲の結果の受け止め方であり、俺単体の話だけれどもね。
もちろん、嫌われないに越したことはないという前提はあるけれども。
そして人に押し付けてはならない思考ではあるし、人に同意を求めてもならない思考だとも理解はしている。
他者から見れば俺は爪先立ちしてプルプル震えながら無理している人に見えるかもしれないしな。
人に言われたことだけれども。
なんとなくハッと刺さった言葉でこんなようなことを考えさせられた。
そして、また後日、個人的に関内で最強の魚居酒屋さんに行った時の事。
物事って料理と同じかもしれないと思ったのだ。
さあて、どう料理してやろうか
料理人が手元にある食材をどういった料理にするかをイメージして考えている感覚と似ているなと思ったのだ。
何の話か?
受け止め方の選択の話だ。
過去に起きてしまった事象を変える事はできないが、それをどう受け止めてどう消化するかは個人で選択ができる。
一見、とんでもなく強烈なキツく苦しい事柄でも、食材と一緒で料理の仕方次第では、自分で前進するためには必要な事だった等のポジティヴな受け止め方に変換(調理)ができるのだよな。
まあ、何度も記載しているように「俺にはラッキーしか起きない」と決めた話もまったく一緒で、何が起きてもラッキーだという結論ありきで起きた事象を後付けの理由を探して、なんでもラッキーになるように調理している。
「心の料理人」とかよく分からないフレーズが脳内に浮かんだけれども、考え方としては間違っていないと思うのだ。
負は負の連鎖を呼び、幸運は幸運を呼ぶ。
当たり前の話で負の情報をまき散らしている人に近寄りたい人間はいない。
そして幸運は人間が運んでくるものなのだから、人が近寄ることを否定したくなるような人間になる事を避けるべきだろう。
幸運が逃げていく。
だからこそ、皆ラッキーしか起きない人になった方が良いと俺は思うのだけれども。
ラッキーしか起きない人になる事は特に難しい事ではなく、過去に起きた良かったことだけを抽出して思い出し、悪かったと思ったことだけを忘れて、自分に都合よく編集した過去を見直して、今までラッキーしか起きてこなかったなと再確認をすればいいだけ
それだけでメンタル的にも雰囲気的にもプラスになるのだから個人的には誰でもすぐなれるのだから、皆ラッキーしか起きない人になった方がいいと思うのだ。
まあ、そんな発想を再度後押しされるような事があった。
先日の事だ、再度町田で仕事だったため、また「いまがわ食堂」で鯖祭り
大トロ締めサバの炙りとアジフライ、ゴマサバの刺しと漁師汁を頼むという大盤振る舞い
ランチで2000円とかやりすぎだよなと思う物の味は美味しいし、魚の脂を十分に摂らせてもらい健康的。
ダイエットにも向いている食事だ。
今日も1日1サバとか思わされる。
うん、この「いまがわ食堂」のランチの魚はランチにしてはかなりいいんじゃないだろうか。
流石三崎口から直送しているだけはある。
そして、会社の仕事の問い合わせラッシュをどうにかこなして、仕事後に県会議員の事務所の懇親会に参加してきた。
初の県会議員の事務所飲み会なので、手ぶらでいくのも違うと思い、どうしようか思案していた。
年齢層は高めで、社長等ばかりがくるとのことで、恥をかかないで済む物を手土産にすべきだなと思ったのだ。
すぐに思い浮かんだのが、関内の魚居酒屋で毎年おせちを買わせていただいている「花びし」の大将のシューマイだ。
なので、県会議員の懇親会が始まる前に抜け駆けで「花びし」さんに行ってきた。
今年もおせちを購入するつもりなのでついでに去年のお重の返却
崎陽軒の常務に「うちより美味い」と言わせたお土産のオリジナル海鮮シューマイを先に注文し、軽く刺しを盛ってもらう事に。
相変わらず、低温蒸気のケースに魚を入れているらしく、水分が抜けないため、色味も美しいし、身も美味い。
島アジの歯応えが捌きたてで凄かったし、マグロも相変わらず美味い
そして見た瞬間に絶対に美味いだろうなと思ったのが、大海老の刺し
赤海老と言っていた気がするが、甘みが強くこれは美味かった。
その際に、大将に言われたのがいつも俺の記事を全部見てくれているとのこと。
記事を書こうかなと思えるモチベーションの上がる話で、正直反応が薄いので、ただただ文章の垂れ流しになっていないかと思う事あるんだけれども、会った人にそう言われたり個別メッセージを貰うと、何を書くかなとネタを探し始めるものなんだよな。
結構、飲食店関連の人は、会った時に見てくれていると言ってくれる方が多い。
客のマーケティングという視点もあるからなのかもしれないけれども。
そんな中、冒頭の料理の話を思わされる話を大将に聞いた。
大将の娘の話だそうだ。
大将はやはりEQ(心のIQ)を重視しており、娘にポジティヴな教育をするようにしているらしい。
その小学生の娘さんなんだが、ドッヂボールが好きではないようだ。
その娘さんに大将はこう聞いたらしい。
ドッヂボール好きじゃないと思うけれども、友達からドッチボールに誘われたらどうする?と
そうしたら、娘さんはこう答えたらしい
「私はドッヂボールは好きじゃないけれども、ドッチボールのコートのラインを引くのは好きだから、ドッヂボールのコートのラインを引きに行くねっ」て答えると。
いい発想だなと正直思った。
人付き合いも否定していないし、自分の嫌な事も回避していて、無理がない。
考え方としては、どうすれば皆ハッピーかの考え方だなと思ったのだ。
短絡的に考えれば、自分が好きじゃない事に誘われるって、ネガティブな事象だと思うのだ。
けれども、それを料理して好きな部分を探して見つけだし、ポジティヴな事象に変換している。
子供に限らず、こういった発想が幸運を引き寄せると俺は思うのだよな。
ネガティヴは自己肯定感の低下を招き、自己否定は他者に価値を感じさせない。
価値が低いと思えば、人はその人を自分がそうだと思った価値と同等に扱う。
だとしたら首に掛ける値札は高ければ高い方がいい。
その値札の釣りあげ方って、自己肯定感の高さがナチュラルに溢れる状態なんじゃないかと大将の娘の言葉を聞いて思わされたのだ。
もちろん、高慢とは別で、自己肯定感が高くなると、自分ではなく他者を先に考えられるようになると思うのだ。
優秀という言葉があるけれども、これも漢字で「優しさに秀でる」と書く
優しさに秀でている人が優秀って事は紐解いていくと、他者に与える事の出来る余裕がある人が優秀ということだ。
その余裕も考え方だなと思うんだよな。
そんなわけで、大将のところの白子ポン酢も堪能し、手土産の自信のシューマイを持って県会議員の事務所の懇親会へ行った。
そうしたら、その懇親会に来ている人の人間力が気になった。
県会議員の方もそうなんだけれども、初めましての新参者の小僧が手土産をもっていったことを考慮して、多分皆あまりお腹減っていなかったと思うのだけれども、気持ちを無駄にしてはいけないと他のつまみには一切手をつけず、俺が持参したシューマイだけを完食してくれたんだよな。
勿論、味は間違いないものなんだけれども、自然と誰も何も言わずにそれができることに人間力を感じた。
そんな縁ができた事もラッキーだなと俺は思えたし。
だから、レア体験ではないかもしれないと俺は思うけれども、皆ラッキーしか起きない人になる事は難しくないので、ラッキーしか起きない人になった方がいいと思うんだよな。
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