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不登校クロニクル 2014年(小1)

現在、通信制高校2年生の長男の不登校クロニクルです。
要約バージョンに続き、各年を記録しておきます。
100人いれば100通りの不登校(きっかけ、過ごし方)があります。我が家のケースということでお読みいただければうれしいです。


2014年(小1)

一学期

4月10日入学式、4月11日登校(後年、「411ショック」と名付ける)
4月12日布団から出られなくなる。
うろたえながら学校に「行けそうにないです」と電話する。
土日は普通に過ごす。
翌週も起きない。体調は悪くない、という。
制服を着られない。ランドセルを持てない。
母と離れられない。
外に行く時についてくる。ちょっとだけ学校に行ってみようと校内に入る。
当時ゼロ歳だった長女も一緒の付き添い登校始まる。
(時間はまちまち、昇降口で30分以上粘ったりする。母親なしではひと時も学校にいられない)
無理に授業に参加させようとすると、ワークなどをぐちゃぐちゃに塗りつぶしたりする。
周りのクラスメイトが驚く。
一人だけ私服、ランドセル無し。みんなから質問責めになる。
机を倒す、クラスメイトに手が出るなど、心をすり減らす。
宿題などできる余裕はなかった…。
幼稚園の先生が学校に呼ばれる。
幼稚園ではこんな子ではなかったです、という言葉で、複雑な、悲しい気持ちになる。
児童精神科でWISCを受ける。暴れて正確な数値が出ない。心の傷になる。
学校から、特別支援学級への転籍をすすめられる。

夏休み

夏休み、少し情緒が落ち着く。
ひらがな、カタカナを教え始める。
読字書字が定型発達の子に比べて著しく難しいとわかる。
「そもそも、これを、何のために、今、しているのか」
「文字とは何か」が飲み込めないと何も入らないということに気づく。
夏休みの間に、長女の保育園入園の手続きをする。
夏休みの宿題の日記は、代筆と好きな植物の押し花でどうにかこなす。

二学期

二学期、妹を保育園に預けてから、付き添い登校する日々が始まる。
児童精神科の主治医が「自閉症スペクトラムは治るものません。で、次の予約は?」で、あまりにも人を診ている感じがしなかったので、学校に相談して、別の先生を紹介してもらう。
その方から、「今の彼に病院でできることはないです。療育が必要です。ものすごく暴れたら、お薬を出すとか、特別支援学級に所属するために診断書を出すことはできます。まずは、<発達>について、お母さん、お父さんが学んでください」という話をされる。
紹介状をもらい、奈良教育大学特別支援教育研究センターにつながる。
10年間、つかず離れず、相談できるO先生とめぐりあう。
(この頃、夫がうつ状態になり、心療内科に連れていく。とてもよい医師にめぐりあう。子どものことも時々相談していたらしい)
初めてのテスト、一文字も書くことなく終了。
学校から、支援学級転籍には、児童相談所で発達検査を受けることが必要と言われ(慣習的に)、知的障害があるとして療育手帳を交付される。
福祉サービスを受けられる権利を得る。
小2から、特別支援学級に所属することが決まる。
秋、運動会でパニックになる。

三学期

2年生からは一人登校を目指しましょう、ということで付き添い登校続く。おにぎり持参で、給食も一緒に食べる日々。
親は給食費は支払っていないけれど、汁物は分けてもらえた。(ここだけの話。同じものを食べる方が、子どももなじみが早いだろうという、支援級主任の判断だった)
親はクラスメイトの子どもたちとどんどん仲良くなる。スタッフ的な立ち位置が固まってくる。
大縄大会、発表会など、むずかしい行事が多い。
長男、教科書が読めない。自分の興味のない文章はまったく読めない。
数字以外は書けない。(読字書字についてはまた書きたい。)
ユニークすぎて、ショックを通り越し、人間とは何かを考え始める。
「発達」について学び始める。
もしかしたら、長男にとって、世界はまったく違うように見えているのかもしれない。
私の人生最大の発見だった。

ひらがなになじめるかな?と思って一緒に読んだ本
ヨシタケシンスケさんの『りんごかもしれない』『みえるとかみえないとか』
五味太郎さんの『ことばのえほん あいうえお』
谷川俊太郎さん、堀内誠一さんの『かっきくけっこ』

2年生に続く

(付記)

学校とのやりとりが楽になるシート。どなたも無料でダウンロード可能です。

フォーラムでお話しした内容はこちら↓



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