![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/56646775/rectangle_large_type_2_626d042fd74ce4938bab60b95fef62cf.png?width=1200)
うつくしい、ことば。
文字がなかった時代、あまり普及していなかった時代に作られたものに、とても惹かれる。
誰かが誰かに何かを伝えたくて描いたのであろう壁画、なんのために作られたのか、もはや定かではなくても、誰かが作り、別の誰かが大切にしてきたもの。
大聖堂の聖人たちに限らず、野山のあちこちに見られる道祖神や、お地蔵さんや、狛犬は、苔むしながらも誰かの思いで特別な意味を持ち、大切にされてきた。それが何であれ、私はただただ畏敬の念を持つ。
ものを作る上で、若い時は誰も見たことがないもの、かっこいいものを漠然と目指していたように思う。
けれど、作品を多くの方に見てもらううちに、上手に作っても「強い思い」のないものは届かない、ということに気がついた。
それが多少いびつであっても、細部にあふれる思いが宿っていれば、見る人がそれを感知してくれる。作品の前で泣いてくれる人があるのを私は何度も見た。それを見ると、私も一緒に泣きたい気持ちになる。不思議と悲しいとかではなくて、説明しきれないような降り積もった思いが解放されるのを、一緒に味わっている感覚がある。
「作品は人が見て、愛でて完成していく」ものなのかもしれない。何かを伝えたくて作って、別の誰かが見て何かを感じるから「作品」になっていくのかも。
だから極力シンプルに、よりよく伝わることばを推敲するような気持ちで、粛々と作品に取り組むようになった。
子供の時に野原に一人で駆けて行ったときに、見るもの、出会うもの、植物も、虫も、動物も、人間も…もっと知りたい、仲良くしたいと思ったあの頃からずっと、生き物とのコミュニケーションや認知というものにとても興味がある。
いつか人類だけでなく生き物みんながもっと分かり合えるような「ことば」ができたら、すべての生き物はもっと仲良くなれるんじゃないか、愛し合えるんじゃないか、ということを、いたって真面目に考えている。
現実でも仮想空間でもことばが氾濫して、木霊のように本来の意味を成さずに無遠慮に飛び交い、時には人の心を切りつけるような現代だからこそ、とても大切な気がする。
お互いの違いを無理に理性で認め合うのではなく、心から尊敬しあい、この世の「時」を心地よく分かち合う方法、傷つけ合わない方法が、きっとあるような気がする。
うつくしいことばを探して、遺したい。
写真: 16年間、大切に大切に養ってきた相棒息子犬の生まれ故郷、石垣島の土で焼く陶器の小さな犬のオブジェシリーズ(焼成前)。犬という賢くて優しい生き物が、もっともっとその意思や思いを尊重されて一生寛いで笑って暮らせるようになって欲しい、という願い。このことば、伝わるだろうか?