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失敗を恐れず:「愚か」であり続けることの効用と重要性

夜も遅いので端的かつ簡単に。

史上最も「愚か」だった芸術家といえば、ヴィンセント・ファン・ゴッホに並ぶものはそんなにいないでしょう。

そして同時に、ゴッホの作品の芸術性はその「愚かさ」がもたらしたものであったとも言えます。

というのも、人生の選択肢においても、そして選択をした後の芸術家としての歩みにおいても、ゴッホは常に「愚か」であり、そして「愚か」であったが故に、己の可能性の全てを試しきることができたということです。

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少々何かをできるようになった人、あるいは何らかの偶然でアドバンテージを持っている人は得てして、本気という名の己の愚かさを出すことをしなくなりがちです。

しかし『五輪書』の序文として書かれた『五法之太刀道序』の一節に

「その狭小に勝ち、すなわち、いわゆる有術、無術に勝ち、片善、無善に勝つ。道と云うに足らんや。一取する所なし」

というものがあり、現代語訳すれば

「多少なりとも術の有るものが術の無いものに勝つ、あるいはどこか良いところがあるものが、全く良いところがないものに勝つ。こんなものを道と云えるだろうか。そんなものを学んで得られるところなど何一つない」

となります。

ゴッホはおそらく自分でも己の実力の無さと愚かさに気付いていたと思います。

ただ、ゴッホを大芸術家たらしめたのは、その愚かさをしっかりと認め、他人に何と言われようとも、自分が何であろうとも、己の目指す最終目的地までの道筋を見出そうとあがき続けたことです。

そしてそれも単にあがいているだけでなく、極めて自覚的に、ありとあらゆる可能性を試し尽くす合理的計算をした上での死に物狂いのあがきであったと思われます。

生悟りの賢者となって愚かな他人を嘲笑い自分から目を逸らすよりも、私は永遠の愚か者として最後まで自分の可能性を掘り尽くすべく歩くものでありたいです。

今度、古流柔術を学びに行きますが、そこでも徹底的に「愚者」であり続けて学べるものを学び尽くしてきます。

そして得られた膨大な引き出し(成功も失敗も)が、後に続く者への大きな道標となっていくし、自分自身の人生の幅を広げるものであると確信しています。

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