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「若いころの苦労は買ってでもせよ」の真意

同じ言葉でも用いられ方が違えば全く異なる結果になるということは、「いろは歌」と「替え歌・いろは歌」の違いと同じです。


今回は資本家や支配者側に恣意的用いられ搾取の道具にされている「若いころの苦労は買ってでもせよ」について考えたことを述べます。


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「若いころの苦労は買ってでもせよ」の真意をまずズバリと述べます。


それは何かといいますと、「若いころにこそ、自らの力で自らを養い、世に立つ実力を身に付けよ」ということです。


これは単に経済力という点に留まらず、自らの精神の在り方、自らの人生全般の在り方についても、です。


もっと詳しく言いますと、何があっても自分の人生を自分の力で支えられるようになるための諸々の物心両面での力を身につけること、そして時代や社会に流されることなく自分の志を研ぎ澄ましながらそれを人生の筋として貫くこと、です。


なので、世間一般で言われているような、ブラック企業に飼われている社畜になれ、社畜の分際に甘んじていろという意味では断じてないです。


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反対に考えてみましょう。


若いころに苦労をしないということはどういうことか?です。


それは、他人のカネを含めた他人の力で遊び惚けて自分の力を何も身につけない、あるいは他人の力で社会的にチヤホヤされる場所に行きながら、それを自分の実力だと勘違いしてしまう、ということです。


一言で言えば「梯子を外されたらジ・エンド」という状況にハマり込み、そしてそれにすら無自覚である、ということです。


ちなみにこれは真性のチャラい遊び人やボンボンだけでなく、自分では努力していると思っているだけの社畜にも当てはまります。


なぜならブラック企業という「他力」にしがみ付くばかりで、自分自身の足で立ち、自分の人生を自分で決めて自分で歩いていこうとせずに思考停止のままの現状に甘んじているからです。


なので、自分の人生が不本意な状態なのに、そこに居続けるということも「自力で自分の人生を生きようとしない」という点で、苦労知らずのボンボンと本質的に大差はないということです。


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私自身もその点で苦労を避けてきていました。


我慢して黙って耐えていれば嵐はいずれ過ぎ去ってくれる、と思っていたのが20代でしたので。


で、20代を終えてみて、自分の実力として持ち合わせているものが、全ての面において貧相、貧弱そのものということに愕然としました。


経済生活的な実力としてはもちろんのこと、人生一般においての心身両面での実力においても、です。


なので、それを変えようと頑張ってみたものの、選ぶ順番を間違えたことでさらに深みに嵌ってしまい身動きが取れなくなってしまいました。


ただ、その中でも「どうやって立て直したらいいのか?」ということを真剣に考えざるを得なくなったことで、だんだん自分自身で自分の人生について考えられるようになりました。


30代前半を振り返ると、30代前半で落ちるところまで落ちて、そして底を打って上昇に転じたというのはこういう経緯です。


ですので、これからが「苦労を買ってでもする」ということの本番が始まると言えます。


目標は「アクティブ無職」として兵法の修業を全うするための時間を創り出せる不労所得の仕組みを築くこと。

そして自給自足生活を確立し「たとえ最後の一兵となるも、己の命運尽き果てるその最後まで戦い抜く」意志と行動を支える一切の実力と基盤を創り出すこと、です。


この基盤を創るためにこれから私の人生で初めてといってもいい「苦労は買ってでもする」ことが始まったといえます(すでに苦労を買い始めていますが)。


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気付いたその時が一番若い日ですので、何歳であっても、気付いたその時に行動を始める、そのきっかけになればうれしく思います。


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『あなたも』

『あなたも、そうでしょう。戦い抜いたから――生き抜いたから、今、そこにいる』

『そのことをもっと、誇ってもいいのだと思います』

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