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そんなに判官贔屓がお好きですか?

今回は少し批判的な記事になるので予め了承いただきたい。
いや、いつもか。笑

「判官贔屓」
日本人は悲劇のヒーローや悲劇のヒロインの話が好きだということ。
もともとは義経のストーリーからこの言葉はきている。
あまりにもその功績が素晴らしいが故に、兄頼朝の命で討ち死にするという歴史的悲劇のヒーローだ。
かくいう僕も好きな人物の一人ではあるが。

今回は義経に関して書きたいわけではない。
現代におけるその意味の捉え方であったり、少し違った角度から捉えるとまた見方も変わるのではないかという問題提起をしたい。

本来の判官贔屓とは

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贔屓するという言葉が出てきている以上、めちゃくちゃいい意味の言葉ではなさそう。
悲劇的な展開を好むのは日本人の気質であるのである種致し方ないところはあるが、

本来の意味は、客観的視点から逸脱した同情や哀愁という意味。

ほう。
間違いない。
ただ、主観的にその人や場面に同情したり哀愁を感じたりするから心が揺さぶられるので、客観的であろうがなかろうが当人からすれば関係ない。
大河ドラマで悲劇的な主人公を題材にしたものが多いのはそういう日本人の気質からきている。

少し立ち止まる

ここでは大河ドラマにフォーカスするが、
あれは、プロフェッショナルな脚本家が書いてるストーリーだ。
フィクションとまでは言わないが、かなり脚色されているところも多い。
もちろん人がどこに感情を揺さぶられるかも熟知している。
そこに名俳優たちの演技が加わるのだから、面白いし感情移入するのは当然のこと。

スピンオフか何かで、違う人物を主人公にして、その人物から見た主人公みたいなものをやっていただけると単純に見ているだけの側からするともっと面白い。
最近?増えてきたように感じるが、主人公以外の人物が物語のナレーションを担当している作品によく出会う。あれに近い。

現代ではどう捉えるのか

歴史の話はここまでにして、これを少し違う角度から一般社会やビジネスに置き換えてみる。
まずは「かわいそう」という概念に関して。
・・かわいそう。なんとも日本らしい素晴らしい表現だ。

ただ、若干上から目線過ぎやしないか。
かわいそうと判断した時点で潜在的に無意識に上の立場になってしまっているのではないか。
日本は先進国だが、発展途上国の貧困層で必死に生きている人たちをみてかわいそうと思うのか。

相手のことを考えるということは相手以上に相手のことを考える。

いつかの僕がもらった貴重な言葉。
別に同情するなとは言わない。そこに感情が揺さぶられ行動に至る場合だってある。
それはとても尊い行いであるし、それこそ人の選択の自由だ。

判官贔屓から逸れそうなので戻す。

義経の話はビジネスの場面でも多く見られるのではないだろうか。
一言で言ってしまうと妬みや嫉みといった部類。
著しい成果を上げた人が評価されるのは当然のこと。そこに倫理感が伴っていれば。
ただそれを主観だけで揶揄するのは良くない。
さすがに頼朝みたいに首を切るまではいかないにせよ、客観的に見る必要がある。
客観的にみてその評価が正当なものでないなら声を上げてもいい。
そうやって組織は出来上がっていくし、完成しないものに向かって日々試行錯誤していくものだ。


久しぶりに自分で書いてて何を言いたいのか分からない記事になってしまった。
代案のない否定はただの野次だ。。

曇りなき眼で見定める。

アシタカ・・。2回目。。

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