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【世界考察35】何を教育すべきか

教育とは何か。私が大学受験(高校受験)の講師であることは、それとなく触れてきたが、最近考えていることを語る。

大半の教育者は、おそらく己の担当科目の知識を与えることが、教育の目的なのだろう。学校の先生(私は塾・予備校講師は先生と認識していない。あくまで講師である。先生は学校の先生だけ)を見ても、塾・予備校講師を見ても、教育系youtuberの人達を見ても、みんな授業が大好きな雰囲気がある。しかし授業(だけ)が教育の本質なのだろうか。私はそう感じない。

私自身は、一方通行で知識を与えることには、あまり興味が持てない。興味が持てないというより、それは最低限である。己の知識を披露して与えることなど、映像授業ですら出来る。いつでも見れるという点では、映像授業の方がいいとすら言える。

私の教育上の目的は、対話と試行錯誤を通じて、課題発見力と課題解決力を育てることである。間違ったことは根掘り葉掘り原因を考えさせ、何をどうやったらそれが解決できるか説明させ、対話を繰り返していく。常に自己分析をさせ、メタ認知を高めていく。それらの力をきちんと育成して、然るべき時間をかければ、どの科目であれ、成績は向上するはずだ。きちんと育てば、見事に私はいらなくなる。私がいらなくなるのが、最終的な理想だ。普通の受験レベルであれば、それで事足りる。普通でないレベルは、それ相応の授業が必要とされる場合も考えられるが、通常その領域まで目指す必要性は薄い。受験でそこまで頑張るくらいなら、大学に入ってから頑張ってもらいたい。

これらの能力は、成績の向上という次元の話に収まらない。何かの目標に対して、課題を見つけ、修正し、向上させるという一連の作業を適用することは、部活であれ仕事であれ、必要な能力である。要は何にでも使える能力だということだ。特に入出力が単純な空間では、絶大な力を発揮する。

ただし世の中は受験のように入出力が単純な空間ばかりではない。それ以降の、単純な論理を超えたような複雑な空間における対処まで教えることはできない(というか単純な空間のように明確な答えがない)が、試行錯誤した経験というのは複雑な空間においても役に立つはずである。単純な空間における力と複雑な空間における力。とにかく力を持っておけば良いというものでもないが、どちらの力も持持っておくに越したことはない。使うか使わないかは、その時に応じて選べばいい。





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