【世界考察12】私は私である。
私は私である。
これは私が所属しているコミュニティの重要思想である。
私は私である。
これはトートロジーである。かの名言、今のままではいけないと思います。だからこそ今のままではいけないと思います、と同じだ。この構文は馬鹿にされがちだが、トートロジーは絶対正しい。逆に言えば、絶対正しいことはトートロジーしかないとすら言える。
私は凄い。
私は頭がいい。
私はかっこいい。
これは全て真にはならない。凄いも頭がいいもかっこいいも何を指しているかはっきりしない。客観的にそう見えたとしても、あまねく人類が同意するとは限らない。
私は私である。
私の中身に関わらず、これは真だ。
私は○○である。
○○以外に私以外のものを入れると、全て真にはならない。真ではない。つまり嘘が混じると言うことだ。
嘘をついたとき、人は不幸になる。
これは真ではない。単なる思想である。
私から逃亡した瞬間、真実が見えなくなる。人は○○に私以外の何かを入れようとすると不幸になるわけだ。私以外の何かを入れようとすることを何と呼ぶのか。身の丈を越えると呼ぶ。
私は私である。
これは身の丈に合わせて生きるということだ。人は私以上の何かになろうとしてはいけない。身の丈自体を伸ばすことはあり得るが、それすらも結果としてそうなるだけであって、身の丈以上のものに、目的としてな「ろう」としてはならない。何者かになろうとしてはならない。その瞬間、嘘つきになるからだ。嘘つきになるとは不幸になることである。これは成功論ではない。多分、この考えに従っても成功はできない。成功などしなくていい。成功とは身の丈以上の何かだからだ。身の丈を下回ってもいけない。それは単なる卑屈である。身の丈の通りに生きる。それだけが幸せへの唯一解だ。
以前どこかで取り上げたこの言葉も、言っていることは同じである。この無数の人物とは、吉本の重要概念である大衆の原像(生活のこと以外考えずに生きる人たち)である。つまり身の丈の通りに生きる人達だ。吉本は身の丈の通りに生きる人達を最上のものとして設定した。それが幸せへの唯一解だからである。成功と幸せは同義ではない。私は私である。この原理が維持されている時、幸せへの道が開ける。