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【世界考察6】壁と壁〜唯脳論が読めなかった理由〜

●壁と壁〜唯脳論が読めなかった理由

最近の世界考察シリーズは、主に私が養老孟司氏(以下養老。敬称略)の見解から得たものに基づいている。今回はそこを深掘りしたい。

養老の見解に基づいていると言いながら、私は以前から養老がほとんど理解できなかった。バカの壁は大学生の頃に齧った記憶があるが、内容は覚えていない。数年前に唯脳論にも挑戦してみたが、何言っているのか意味不明だった。読解力は人並みにあるはずだが意味不明だった。

今思い返すと内容が全く理解できていないわけではなかった。脳が内容を拒否していたのだ。まさに「壁」である。なぜ拒否していたのか。拒否の理由は唯脳論に書かれている。科学主義者で素朴実在論者だったからだ我々は脳に縛られているわけではない。科学を通してありのままの世界の真実を客観的に理解できると思い込んでいたからである。「科学」が「壁」になっていた。

今はこの壁が取っ払われて、すんなり唯脳論が入ってくるようになったのだが、その理由は唯脳論をひたすら読み込んだからではない。理由はサイエンスの限界に気づいたことと、世の中コントロールできないことだらけであることに気づいたからだ。

サイエンスの限界に気づいたのは、科学哲学を齧ったことによってメタ視点が発達したからである。コントロールできないことだらけであることに気づいたのは、人生で全くコントロールできないことに直面して痛い目を見たからである。今までコントロール可能な範囲にしかいなかったので、それに気づかなかっただけだった。これらはいずれも唯脳論から得たものではない。前者は別の本から、後者は実体験から得たことである。頭だけでもダメ、体だけでもダメ、とはこのことだ。

さらに言えば唯脳論が頭に入ってくるようになったのは、養老の別の簡単な本を読んだからでもある。いきなり東大の問題を解こうとする人はいないわけで、まずは簡単な問題演習が必要なことは常識だ。なまじ本を読んできただけに、本に対してはその視点が欠けていた。このような過程を経て壁が壊れ、私はめでたく唯脳論という新しい知見を獲得した。

めでたく。
これは本当にめでたいのだろうか。

知識をつけて視野を広げる。世界が広がる。これは無条件に是とできるのだろうか。それ以前に、新しい知識で本当に世界が広がっているのだろうか。そうは思えない。何かを身につけた、新しい視点を手に入れた、その裏で失われたものが絶対にある。

特に唯脳論を受け入れたことで失われたものは大きい。人間は脳を通してしか世界を見ることが出来ない。そこからサイエンスの限界を理解し、科学主義から解放された結果、「科学」や「統計」、「合理性」や「客観性」、より大きく言えば「実益主義」を失った。そうではなく、むしろ「実益主義」を失いつつあったから唯脳論を理解できたのか。鶏が先か卵が先か。もはや確認しようもない。いずれにせよ唯脳論を得たことで消えていった対応物はある。消えていったは言い過ぎだとしても、減退した対応物は確実にある。

人間が脳を通してしか世界を見ることが出来ない。人間は世界の真理など知りようがない。それは科学で世界全体を覆えるという思想よりも「真理」に近い。だが真理に近づいたことで、実用的な思考力は衰えている。思考力というよりは判断力か。社会生活上の適切な判断とは実益のために実益以外を切り捨てることである。真理と実益は遠い。真理に近づいた結果、世界の複雑さを理解した結果、私はかつての判断力をなくしてしまった。これは単純に喜ぶべきなのか。

今は科学主義者や合理主義者と会話が成り立たなくなっているだろう。ここにはかつてなかった「壁」がある。結局は「壁」を崩すと別の「壁」が出現する。唯脳論が読めるようになってもめでたしめでたしとはならない。しかし人間は変化して生きて行くしかない。時間とは変化だからだ。

結局、人間は壁から逃げられないらしい。

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