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表現と空間 #1(全3回) 【哲学的研究】表現と表現の場について【全文公開】


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Introduction

人はだれしも自己表現を求めている。

とは言い難いらしい。自己は地中に埋まりながら、他者の表現物に触れるだけで十分満足という人々は、想像よりずっと多い。だからこそ、表現者に利益が集約する世の中が出来上がっている。

ところで、唐突に「表現」なんて話を始めているわけであるが、表現とは一体何だろうか。「商品」や「作品」として認知される形式は、分類しきれないほど様々なものが存在するが、基本的には表現とはコミュニケーションの発露のことである。つまり、送り手と受け手双方が存在しなければ表現は成立しない。一人、家に引きこもって絵を描き続ける。誰に見られることもない。その絵ははたして表現なのだろうか。これは評価が分かれるところだろう。そもそもの描き手が誰かに見せたいという欲求をもって描いていたのであれば、ギリギリ表現と言えなくもなさそうだが、自己満足ないし自分に閉じた欲求、動機に従って描いていたのであれば、少なくとも最も狭い意味においてはそれは表現ではないと僕は判断する。

芸術のカテゴリでは、表現と言えばどうだろう、「表現主義」といったキーワードをもってくるなら、内面の発露、感情の象徴的(抽象的ないし超現実的)具現化というニュアンスになるだろうか。数学のカテゴリでは、およそ文学や批評の一ジャンルとしか思えない「表現論」なるものが存在したりする。高度に抽象的な概念を、表現する手法を研究することのフィードバックによって追い詰めるというような考え方である。数学者というのは正確性という一面において相当狂っているので、門外漢がこうして数学について触ると発狂する人が出てくるが、これもまぁ素人目にはこんな風に見えているよ、という表現である。それこそ「表現論」として活かして欲しい。なんにせよ、ある特定の「文脈」を準備すれば、必然その言葉の受け持つ領域も変わる、というただそれだけのことである。

僕は専門を持たないことを自負として強く持っているので、いまここで触れている「表現という『表現』」について、でき得る限り専門性から切り離して日常という地べたに座り込んで話すつもりである。皆さんもそのつもりで、薄汚れた地べたに座って話を聞いていただきたい。

表現に何故受け手が必要か

表現には受け手が必要であると上述した。その理由はどこにあるか。そんなものは、表現という言葉の定義にしかない。僕がそう定義したから。それだけである。世の中の多くの議論は、定義を無視して謎の正しさをぶつけ合うためうんこの投げ合いになる。僕は表現を「コミュニケーションの発露」と定義した。コミュニケーションであるが故に、受け手が必要と断じている。もっと言うと、コミュニケーションすら定義に立ち返ると本当に受け手が必要かという話になり、これまた面倒な話を持ってこなければならなくなる。これも何が正しいとかではなくどう定義するか問題であるが、最も有用な定義は今の時代におけるコミュニケーションという言葉の使用文脈の最頻値を引っ張ってくることであろう。それは何か。

共有である。

コミュニケーション革命

ここ30年ほどの間に、信じられないくらいITは進歩した。人間の生活の様々な部分が少しずつ影響を受けながら変容してきていると思うが、その最たる部分はコミュニケーションであると僕は感じている。「最たる」と述べた内訳は、その概念の変化の振れ幅の大きさと、今問題にしているITのネイティブ非ネイティブ間の感覚のずれの大きさについてである。

詳細は次の論考で述べる予定にしているが、敢えていまその話を出したのは、表現、つまりコミュニケーションには「場」が必要であるという話がしたかったからである。

ITなき時代においては、「場」なんてものは特に意識するまでもないものであった。感覚器が認知する直接的な空間がそのままコミュニケーションの場であった。いまや、コミュニケーション空間は恣意的かつ部分的に切り貼りされ、全体像が隠されたまま構成されることが十分可能になった。実際、そうした空間がどんどん自然な意味での空間と置き換わりつつある。そして、その置換度合いは、どの程度密にその空間に触れているかによって、人それぞれかなり格差がある。これまで通りのナチュラルな空間と都合よくコーディネイトされた空間、そのどちらにどの程度触れているか。それが皆さんのコミュニケーション感覚に影響しているはずである。そして、いずれはコミュニケーションのほとんどがコーディネイトされた空間で行なわれる時代に移行する。それは間違いない。高度に発達した抽象言語でコミュニケーションしている我々が、そうした言語を持たなかった時代に戻るはずはないし、仮にそのような高度な言語を持たない人間社会がどこかにあったとして、その社会に今の意味での言語を伝えれば、必ず抽象言語がコミュニケーションを塗りつぶす。技術、発明は後戻りしないのである。

そうなってきたときに、僕の興味が向かうのは、当然コーディネイトされたコミュニケーション空間における人間の新しい立ち回りについてである。最も、原理原則の話をするなら実はどのような空間が準備されようと、おそらく何も変わっていないということにはなるはずである。人間の原理原則とは、遺伝子(身体)による縛りである。よって、まずはコミュニケーションの場とは何かということに話を進めていきたい。

場のコミュニケーション力学

人間は何故コミュニケーションをするのか。それは、コミュニケーションが自身に利するからだと思うかもしれないが、言わぬが花という言葉もあるくらいで、実際にはコミュニケーションが自身に単純な利のみをもたらすわけでもなさそうである。それでも、人間はコミュニケーションをする。人間が明確な意図をもって行動するとき、以前も述べたようにそれは利己の精神に基づいているはずである。

では、コミュニケーションが一体自身にどんな利をもたらしているのか。考えてもよくわからない。つまり、コミュニケーションは欲求に基づいているのだろう。典型的にわかりやすいのは、性交渉である。これも、もちろん、コミュニケーションであるが、これはシンプルに快感という報酬(利)が存在しているのでわかりやすい。それをもっと広義なコミュニケーションに置き換えていったとして、外部に理由が見つからないため、やはりある種の内部的(遺伝的な意味での)報酬がかかわっているのは間違いなさそうである。もっと言うと、コミュニケーションというのは欲求よりもさらに一段高いところにあるというか、そもそもやめたくてもやめられないものですらある。実質、生きることと同義に近い。生きるということの「ナチュラル」な意味は本来もっと幅広いもののはずであるが、言語的に生きるということの意味を「コーディネイト」して抽出するとそうなるという意味である。コミュニケーションすることが生きることである。そう言ってしまっても、現代においてはさほど違和感も持たれないだろう。だから、事故などで脳機能を完全に失った人を脳死などと言って死人認定する。

というわけで、人間は放っておいても勝手にコミュニケーションをする生き物だということは前提とする。引きこもって一人でいることを良しとする人も、根っこではコミュニケーションを求めている。アニメを見たり漫画を読んだりゲームをしたりすることもコミュニケーション(外部との交通)であり、真にコミュニケーションを求めない人がいるとするなら日がな虚空を見つめて何もしていないはずだが、健常な心でそんなことをしている人はいない。もっとも仮にいたとしても、コミュニケーションをしないのであればそれが僕のところ(外部)まで伝わることもないので、そんな人がいるかどうかは、原理的に知ることができない。

皆さんはコミュニケーションをするのに、それを保証する場が必要であり、場がコミュニケーションの在り方をある程度制限しているということを、日頃意識しておられるだろうか。それは、プライベートな場だとかオフィシャルな場だとか、そういう話でもあるだろうし、場のコミュニティ属性によって話す内容の偏りを調整する(政治の話をする場で唐突に関連のないアニメの話をしても通じない)という話でもあるだろう。コミュニケーションとは、言いたいことを言えばいいというものではないということである。リアルタイムの会話においてとにかく何でも話すことで場を制圧するというやり方ももちろんあり非常に重要な話であるが、それは狭義でのコミュ力の話なので、いまは忘れてほしい。繰り返すが、コミュニケーションというのは、場が準備して想定したものしか流通が許されないものである。「ナチュラル」な空間であれば、その縛りはほとんどないが、何者かの意図が絡んで「コーディネイト」された空間(特定の目的を持ったコミュニティであったりコミュニケーション方法に縛りのあるソーシャルメディアであったり)であれば、その場において意図されたものしか流通しないので、場を超えた何かをコミュニケーションとして表現しようとするのは全く無駄であるし、できないことを嘆くのも無駄である。

表現欲求

表現とはコミュニケーションである。そう述べたのは、かなり広い意味においてである。狭い意味においては、やはり、表現とは「一定の場に流通する」という意味を含んだなにがしかの感情の発露であろう。つまり、狭い意味での表現欲求とは、人と会話がしたいというようなコミュニケーション欲求ではなく、自分(の表現)を(特定の)場に流通させたいという欲求である。その欲求を持っている人は、冒頭の言葉通り、僕の経験による体感ではそこまで多くはない。

しかし、そもそもの場が「ナチュラル」に閉じたものではなく流通を前提に「コーディネイト」されたものであるなら、参加するすべての人が流通に乗る可能性があり、結果としてそのフィードバックが全ての場の参加者を表現者に仕立て上げる。X(旧Twitter)はその好例である。多くの参加者が、自身の発言が流通すること、流通する可能性があることを認識して発言している。

ソーシャルメディア(SNS)は表現欲求を満たす場というよりは表現欲求を肥大化する場であるといった方が実情に合っている。そして、育てられ肥え太らされた欲求は、流通に乗せられて一部の上澄みに利益として刈り取られる。

僕が興味を持っているのは、もちろんこうした現代的(モダン)な歪な構造についてであり、古典的(クラシック)な意味での直感的な表現欲求についてはさほど興味はない。

以上、僕がいま表現について語るとして、その前提となるであろう部分について少しだけ触れさせていただいた。前提ということで今回は、古典的(クラシック)な発想につながった部分が多かったが、次回はより現代的(モダン)な部分に特化した問題について述べたいと思う。

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