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介護を決意した老老介護殺人事件


36年ぶりの帰郷

 高校卒業と同時に実家を離れ、2024年は54歳を数えた。36年という年月は街の風景も変えてしまう。幼い頃は家の真ん前にある田んぼと、近くを流れる川でよく遊んだ記憶がある。今や駅は近代的な建物にかわり、大型商業施設ができた。あっという間の36年だったが、街を見ると長い年月が過ぎたことを実感する。実家を離れる時、「二度とこの街には戻らない」、いや「戻りたくない」と強く決心したにも関わらず。

認知症と診断された母

 異変を感じたのは4年前。余程のことがない限り、連絡してくることがなかった母親から電話の頻度が増え始めた。「おふくろも歳をとったせいだろう」と軽く考えていたが、徐々に違和感を覚えるようになる。まず電話がかかってくる時間が夜遅かったり、仕事中の時間帯だったり。それまでの母には考えられない行動だった。 
 初めて認知症を疑ったのは、数日前に話したことを繰り返し話すようになってからだ。「一昨日聞いた」と母に伝えると、「あれ、お母さん話したかね」というやりとりが増えた。不安を感じた私は、滅多に連絡をとることのない父へ電話をかける。その頃の父は、さほど気にしてなかった様子で、「歳をとれば、それくらいのことはあるだろう」という反応だった。
 母の口から衝撃的な言葉をきいたのは、それから半年後くらいだったと記憶している。仕事中の電話だった。電話口の声は怒りの感情からか若干興奮しているように感じた。
「お父さん、彼女がいるのよ。」
父は8年前に膀胱癌を患い、人工膀胱を装着した生活になった。本来父の性格からしても疑う気持ちなど全くない。
「そんなことあるはずないよ。母ちゃんの勘違いでしょ」
それに対し母は、「私は何回か(一緒にいるところを)見た」と言い張ったのだ。

 改めて父に連絡し、母とのやりとりの一部始終を伝えた。当然父は「濡れ衣だ」と反論。そのとき初めて父から母の言動がおかしいことを聞かされた。同様に異変に気づいていた兄と一緒に父を説得。ようやく重い腰を上げて病院を受診することになった。 
 診断は、アルツハイマー型認知症。初期段階と診断を受ける。あわせて市の高齢者相談支援センターへ連絡し、行政の訪問サポートを受けることになった。

老老介護の末の殺人事件

 認知症の診断を受けて以降、定期的な連絡を心がけた。父は我々に心配かけまいと「大丈夫だ。問題ない」という返事を繰り返す。しかし母と話をすれば進行していることは明らかだった。
「夜中に(父の)彼女が家に来ている」
「家のモノがなくなる」
「グラウンドゴルフに行くと言って出かけるが、彼女と会ってる」
被害妄想と嫉妬妄想が日に日に悪化していた。 進行に伴って、父も隠すことを諦めていく。それが母に対する暴言・暴力までも勢いづける結果となる。浮気を疑い続ける母に対し水をかけたり、酷い時は手を上げることもあったようだ。実際に電話口で物を投げるような音を聞いたこともあった。 
 そして衝撃的な事件を知ったのは「母を施設に入れて、父と離した方が良いのでは」と兄と相談し始めた頃だった。80歳の夫が介護疲れの末、85歳の妻を絞殺した事件を知る。

世田谷老老介護殺人事件
 2023年10月1日夜、80歳夫が認知症の妻85歳の首を電源コードで締めて殺した。妻は認知症だけでなく視力も失っており、夫が一人で介護を続けていた。日頃から浮気を疑われ部屋で暴れたり、徘徊を続けて近所にも迷惑をかけていたという。介護疲れの末の事件だった。2024年に行われた裁判では、懲役3年執行猶予5年の異例の判決となった。

デイリー新潮(2023/10/6)

状況が両親と重なった。父の浮気を疑う嫉妬妄想、モノがなくなる被害妄想。徘徊はなかったものの、日々疲弊する父の姿。昔から気が短い父だけに、最悪の映像が頭をよぎる。 
 年間契約で働いていた私は、更新時期に状況を伝え実家に戻ることを決断した。帰郷前に認知症に関する知識を詰め込み、それなりの備えをして戻ったつもりだった。しかし現実は想像をはるかに超えていた。 私はnoteに書くことで認知症に関してより学び、同じ境遇の方の話にも触れたいと思うようになった。また両親の生きた証としても書き残すことを決めPCに向かっている。

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