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イグジステンス あるいは存在のイっちゃいそうな軽さ 【5/13】

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 そこから記憶がフェードアウトして、目を覚ますとわたしは駅前の……どこの駅だ? それもわからない……チェーン店らしい居酒屋で飲んだくれていた。

 絵に描いたドラマの酔っ払いのように、テーブルに突っ伏していたようだけど……この店に入った記憶がまるでない。

 目の前には8分の1ほど気の抜けたビールが入った大ジョッキがひとつ。
 一体、何杯飲んだのかもわからない。

 ツマミもアボカドの刺身以外は頼んでおらず、お通しの冷奴にもほとんど手をつけていない。

 と、そのジョッキ越しの黄色く歪んだ視界の中に、男が……黒いスーツを着た男の姿が見えた。

 男? ……あいつ?……まさか……えーっと……なんつったっけ……あののっぺり、でかい顔をしたストーカー? ……ウシ、とかなんとかいったっけ?? ……あいつと飲んでたの? わたし?

 ガバッと身を起こすと、視界がぐらん、と液体のように流れた。
 頭蓋骨の中に浮かんでいる脳みそが、小船のように揺れたような感じだった。

「おっと……」黒いスーツの男が言った。牛島ではない、嗄れた声だ。「……大丈夫ですか?」

「あんら……」ろれつが回らない。「られ?」

「いやいや、ええと。何と申し上げたらいいか……あなたがお一人でかなり無茶に飲んでらしたので、失礼を承知でお声がけさせてもらった、通りすがりの年寄りですよ」

 痩身の、顎の長い、白髪の……確かに年寄りだった。
 見たところ、70歳は軽く越えている。
 目は穏やかで、話し方はじつに丁寧で紳士的だった……しかし、まるで記憶がない。

「ええろ…………わらし……何杯飲んだんらっけ?」

「さあ……? わたしがお声がけしたときはもうすでに、かなーり酔ってらっしゃるみたいでしたけど……とにかくわたしがご同席してからは、すでに4杯の『』と、2合のお銚子を二本、お召し上がりになっておられたようですね」

「……ううう」

 そうか、そりゃ気分が悪いはずだ。

 ……ってか、ここまでひとりでヤケ酒したのなんて、お酒を飲むようになってこの方、はじめてのことだ。
 それよりも飯田に言われたことが、わたしにとってそこまでのショックだった、というのがダブルパンチでショックだった。

 あの場ではクールに受け流したつもりだったのに。

 ええ? ちょっと待って?
 わたし、泣いてたの?

 ……さっきで顔を伏せていたテーブルが濡れている。
 まったく…………屈辱的このうえなかった。

 飯田がクソろくでもない奴であることくらい、わかっていたはずなのに。
 それを改めて確認しただけの話だったのに。

 ってかわたし、何でこんな見知らぬ老人と飲んでるんだろうか。
 ま、まさか……このジジイ相手にわたし、飯田に関するグチを並べ立てたりしたのだろうか。

 そ、そんな……いくら酔っていたとはいえ……そこまで屈辱的な敗北なんて、あんまりじゃないか。

「……忘れてしまいなさいよ。そんな男なんて」

 老人が言った。

「………ぐうう」

 やっぱり、喋ったんだ。
 もう、死んじゃいたい。

「……見たところ、あなたはきれいで、魅力的で、若くて、とってもチャーミングです。長い人生です……そりゃあ、選択を誤ることもありますよ。たまたま、ろ くでもない男に引っかかっただけです……これから先、きっといいことがあります。人生、まだまだこれからじゃないですか」

 男はまるで、を慰めるような優しい口調だった。
 悲しみと吐き気が、急に込み上げてきた。

「………しゃべっらんら……わらし……えっと……なにしゃべっらんらっけ?」

 相変わらず、呂律が回らない。

「ごめんれえ……なんらか……ろーでもいいいはらしばっかりらったんらない?」

「いえいえ……聞けば聞くほど、あなたの真摯な思いが伝わってきましたよ……お嬢さん、男の中にはね、そういうふうに、女性の気持ち……とういか、他人の 気持ちを理解することのできない、とても『感度』の鈍い奴もいるんです。わたしが思うに……近年、そういうタイプの人間が多くなっているような気がしま す。世界中の人間の『感度』が、どんどん鈍くなってるように感じる……その男性……飯田さんでしたっけ? (ああ、名前まで言ったんだ)彼も、あなたから、 その繊細な心や、やさしい心遣いや……愛情や……まあ口にするのも何ですけれど……セックスに関する献身的な思いを感じ取ることができなかった。それは 『感度』の問題なのです」

せっくる?

 ……おいおいわたし、そんなことまで喋ったのかよ。

「いつも……彼は……あなたの部屋にいきなり訪れては……あなたを、かなり手荒に扱った……そうですよね? ……いや、あなたからお伺いしたことです。その……いつもいつも、彼は後ろからあなたを獣のように攻め立てるばかりだったとか……」

「……かえりまる」

 いったい、こんなエロじじい相手になにをしゃべってんだ、わたし。

 席を立とうとしたが、頭はまだふらふらで、脚に力が入らなかった。
 
「おっと……大丈夫ですか。まだ少しゆっくりしていかれたほうがいい」

 男はそういうと、店員に熱いお茶を二つ頼んだ。

 老人は細くて、長い顔だ。
 光のない目で、スキャンするようにわたしの顔を見る。
 特徴の多い顔だった……よく見ると、眉毛がつながっていて、鼻が曲がっている。

 眼窩は落ち窪んでいるかのように深い。

 まるでちょっと狂気入った画家が、暗い部屋で鏡を見ながら描きなぐった自画像のような顔だった。
 一度見たら、なかなか忘れられない顔だ……あの牛島とはまったく違う。

「らっぱり……かえりまる……」

「いいや、まだまだゆっくりしていってください……あなたには、類まれな『感度』を感じます。近年の人間が失いつつある、人間として必要不可欠なものであったはずの、敏感な『感度』です。他人をよく理解し、自分を越えて他人のなかにわけいっていくような、鋭い『感度』です。わたしがあなたにお声がけしたのは、あなたにそれを感じたからです」

「ええろ……?」

 何言ってんだこのジジイ。
 感度? ……いきなり下ネタかよ?

 と、テーブルの下で、パンツ越しにじじいの手がわたしの膝にふれた。

「ひゃっ……」

「うん……」

 じじいが目を閉じて、わたしの膝小僧を撫で回す。

 ビビビ、っと朦朧とした意識の中で、その部分だけが生物的に反応した。

「らに……すんろよ……」かさかさの手が、太腿を這い上がってくる。「んっ」

 でも、席を立つことはできなかった。

「やはり思ったとおり……あなたは『感度』がいい」

「らめ……らって……らめ……っ……」

 アホみたいな抵抗の口調。
 てか、『感度』ってやっぱそっちかよ。
 じじいの手がますます大胆になって、わたしの太ももをパンツ越しにねっとり、こってりとなでてくる。

「ほらほら……ほんとうにあなたは、『感度』がいいですね……」

「りが……い……まるっ……」“ちがいます”わたしは言ったつもりだ。「あんっ!」

 じじいが内ももを撫で回す……えっ……えっ……ちょっと……どうなってんのこのじじいの手?

 あの国民的海賊マンガの主人公みたいに、ゴムみたいに伸びてるとしか思えない。

 正面に座ってんのに……な、なんでそんなとこまで触れるわけ?
 ……や、や、やばい……やばいこのままじゃ……このままじゃ……

「ひゃっ……あっ!」

 なんと、じじいの手があたしのパンツのホックを外して、ジッパーを降ろした。

 じじいは身体を屈めていない……片手をテーブルの下に入れているが、ぴん、と背筋は伸びている。
 テーブルの下で無理して手を伸ばしているように見えない。

 じじいのかさかさの手が……ズボンのなかに潜り込み、下着のうえからわたしの大事なところをまさぐってくる。

「……おや、もう濡れているのではありませんか?」

「りり……し……し……しりまれん……」

 舌の回りが戻らない。
 これじゃまるでアホそのものだ。

「なぜ濡れているんです? ……なぜ興奮しているんです?」

「しら……ないっれば……」

「あなたは、わたしを通して……自分を欲情させているのではありませんか? ……こんな老いぼれが、年甲斐もなくあなたにけしからん悪戯をさせる気を起こしている。つまりこのくたばり損ないは、あなたに対して欲情しているから、いい年をしてこんなはしたないことをする。そのくそじじいの、なけなしの欲情をあなたが『感受』したから、あなたの『感度』が高いから、あなたは興奮して濡らしている。そうは思えませんか?」

「なに……わけの……わらんないこと……あんっ!」

 乾いた枝みたいな感触の指が下着の中に入ってきた。

 ええ、まあ、はい。
 濡れてました。

 確かに濡れてましたよ。
 どーもすみません。

 抵抗しなかったのは、かなりヤケになっていたからだろう。
 
 断じて、気持ちよかったからではない。
 と言っておく。

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