ストレス発散のために書いた偽りなき本音。(教育)
形だけ。
例年通り。
やったことに。
毎年のように聞いていたこの言葉。
ここ田舎では、変化を嫌い、何の目的かも分からない活動をせっせと続けてきた。
数年に一度、「役」が回ってくる。
それは「厄」でもある。
自分の代で何かを変えると永遠に、「あの人が変えた」と、語り継がれる。
変化を嫌ってるのではない。
自分達はやったのにという呪縛から逃れられないだけである。
みんなやめる理由を探してた。
何の意味があるのか。
そんなものもたくさんある。
でも、反対に残したいものもある。
何が大事で何が不要かを判断する過渡期だった。
そこにやって来たのが新型コロナだ。
今年度、何もかもが中止だ。
理由は新型コロナだ。
待ってましたとばかりに、
PTAは、何もやろうとしない。
今までやっていたことも。
いらないものは、べつにいい。
必要なものでもだ。
要は、新型コロナに乗じて、自分が責任から逃れたいだけである。
自分の子だろう?
何かやってやろうと思わないのか。
ぼくだけか。
六年生の思い出を作ってやりたいと思うのは。
親同士は仲がすごく悪いらしい。
しょうもない。
しょうもない。
しょうもない。
なんだよ。
大人ってくそだな。
そんな姿を見て、育った子どもは、平気で人を阻害する。
自分より弱いとみなした人間を攻撃する。
残念極まりない。
本当に、子育てのできない親が増えている。
大半が、どうでもいいって思ってるんだろう?
そんな人間相手に過労死ラインまで働いている教師ってなんなんだ?
ただのバカなのか?
そうじゃない。
そんな中にもいるんだ。
6年生の一年間で輝きたいと思っている子が。
思い出を作りたいと願う子が。
いいクラスにしたいと思う子が。
40人の中に数人。
その子がいる限り、教師は、諦めてはいけない。
なんとかしてやりたいと思う。
親の中にもたった数人だが、いるはずだ。
同じ思いをもった人間が。
そのくらい、崩れ去っている。
ハッピーエンドが見えないクラスだ。
久しぶりのひどさだ。
気の合わないものは排除。
仲のいい人と一緒にいれたらそれでいい。
多くがそう考えている。
それをどう修正するか。
醜い。
本当に醜い。
情けない。
本当に情けない。
でも、なんとかしてやりたい。
最後の一年。
学校っていいな。
クラスっていいな。
自分っていいな。
と、思ってほしい。
エゴなのか。
そんな疑問ばかりが浮かんでくる。
ぼくは、まだまだ足掻くべきなのか。
時間を犠牲にしてまですることか?
他人の子だろう?
自問自答の毎日である。
教師の本音である。