西念寺
by noriko
稲田駅を降りて歩き出し、橋の欄干を見るとふと思い出した。
──そうだ、あの時は川を大きな鯉が何匹も泳いでいたけれど、今はどうなのだろう。
わりと浅くて幅もそう広くない川に、こんな大きな鯉がいる、ということが驚きだったのでよく覚えていた。しかも錦鯉が。もう七、八年も前の話だ。川に近寄ってみると、やはり鯉は悠々と泳いでいた。それはまるで昨日の出来事のように。そして同じように親鸞ゆかりの寺、西念寺を目指している。
川に沿った田んぼ道を歩くのは、子供に帰ったようで心が弾む。まだ稲刈りが済んでいない金色の田んぼの向こうには、山が見える。あれが、親鸞が比叡山のようだと言った吾国山だろうか。山の手前には民家と焚火の煙。最近ではあまり見なくなった光景だ。
今なのか昔なのか、はたまた現実なのか仮想なのか、だんだんわからなくなってくる。
西念寺に着くと、イチョウは大きくそびえ立っていた。堂々とした構えだ。このイチョウは「お葉付きイチョウ」といって、葉にイチョウの実が付いているというのだが、まだ見たことがない。
このところ、あちらこちらでイチョウを目にするようになって、ふと西念寺のお葉付きイチョウを思い出して来てみたが、「今年は夏のような秋ではあるが、元気でいるだろうか」という心配をよそに、たくさんの葉を落としている様子だった。ただ、私にとっては少々残念なことに、きれいに掃きそうじがされていて、一度見てみたかったお葉付きイチョウには出会うことができなかった。
実が全部の葉に付いているのではなく、捜せば見つかることがあるという、宝くじのようなものらしいので、今日は諦めて帰ろう。むしろ「又おいで」と歓迎されているのかも知れない。前回もたしか、そう思って帰ったような気がするが。
親鸞が京都に帰るときに家族が見送ったという見返り橋に立ち寄って、西念寺を後にした。
今日は満月。親鸞の時代に思いを馳せてみるのも、いいかもしれない
by reiko
JR水戸線にしばらく揺られ、稲田駅で降りた。
ここから、歩いて西念寺というお寺に行く。
訪れるのは2回目。前回来たのはコロナ禍になる前だから、確実に5年以上は経っている。こうやって過去を振り返り年数を数える時、時間があまりにはやく過ぎ去っていることに、最近よく驚く。
駅からまっすぐ道を歩くと、鯉のオブジェが設られた小さな橋がある。川なのか、水路なのか。そう深くはない水嵩の流れが、実った稲で金色に光る田んぼの方からおだやかに続いている。水の中では錦鯉が何匹も泳いでいた。赤、白、黒、と体の色も様々。まるまると大きく育っている。
稲田駅から西念寺までは片道25分ほどある。鯉を見たり、稲を見たり、遠くの山を見たりしながら、てくてく歩いてたどり着く。
西念寺は浄土真宗発祥の地と言われている。親鸞がこの場所を拠点にして、布教活動を行なっていたらしい。家族と共に20年ほどここに暮らしたそうだ。
石畳の道を歩いていくと、茅葺屋根の山門がある。門をくぐると庭が広がり、正面奥に本堂。その左手前にお葉付きイチョウの大きな木がある。お葉付きイチョウは葉っぱの上に実を結ぶ珍しい変種で、全国で20本ほど存在が確認されているらしい。珍しい実を見てみたいと思ったが、地面はきれいに掃除されていて、その存在を見つけることはできなかった。
本堂は自由に入っていいと書いてあったので、お言葉に甘えて、上がらせていただいた。前回来た時には、ここでご住職に声をかけていただき、ご住職が描かれた仏画の作品を多数拝見したなぁと思い出す。偶発的なご縁を感じる体験だったので、しっかり記憶に刻まれていた。
本堂を出た後はイチョウの木をぐるりと回って、見返り橋というものを見に、敷地の外へ。田と田の間の道に、石の橋が置かれていた。京に帰る親鸞がこの地を発つ際に、名残り惜しんで、この場所にしばらく佇んでいたのだという。
茨城と京都の距離。遠い別れだ。親鸞がここで何を思ったのかと想像すると。少し切ない気持ちになった。